過干渉。
愛されないよりは良いだろう。
ましだろう。
父親なら当然だ。
母親なら無理もない。
姉なら可愛くて仕方ないだけだ。
妹なら慕われて嬉しくないのか?
相談した先で言われた数多の悪意ない言葉。
恩師と思っていた男性の、欲情を向けてこないと思っていた、数少ない女性の。
悪意がない分、胸に突き刺さる見解を立て続けに示されて。
準備をしていたにもかかわらず、逃げ場がないと思いつめてしまった、十七歳の土砂降りの日。
私は運命に出会った。
何が切っ掛けとなったかは知らないが、ある時期から盛んに謳われた、運命の女≪ファム・ファタール≫という概念。
男性に取っての赤い糸の相手、もしくは破滅を招く魔性の女を指す呼称。
私にとって彼女はまさしく運命の相手だったが、血縁の者たちにとっては魔性の女以外の何者でもなかったようだ。
己の過干渉を愛情だと謳う偽善者たち。
度を超した過干渉が虐待なのだと、今にしても理解できない彼や彼女等とはこの先、永遠にわかりあえることはないだろう。
愛しい相手を貶す屑を、理解したいとも思わない。
「かさ、ないの?」
観測史上トップクラスの土砂降りと解説されたその日。
家に帰りたくなかった私は児童公園で一人、雨に濡れていた。
学生服はぐっしょりと濡れて重く、全身は冷え切っている。
首を上げるのも、口を開くのも億劫だったが、幼い口調に違和感を覚え、瞬きをした。
幾度かの瞬きのあとで目元に溜まった雨が流れて、僅かに視界がクリアになった。
そこに。
彼女がいた。
大きな瞳には心配そうな色が宿っている。
長い髪は神経質なほど丁寧に編み込まれていた。
伸びた手足は壊れそうに華奢で、サイズのあっていないようなぶかぶかの長靴が余計に目をひく。
「かぜ、ひいちゃうよ?」
近くに来て、小さな傘を傾けてくれる。
肩掛けの青い幼稚園バッグが、瞬間でびしょ濡れになってしまった。
「……青、好きな色なの?」
「とくに、すきじゃないよ?」
「……鞄も、傘も、青だよね?」
少女の愛らしさにはそぐわない色。
私ならもっと少女らしい色で飾りたいが、好みというものもある。
「……おにいちゃんが、くれたの、だから」
「もしかして、長靴もそう?」
「うん」
どうやら兄のお下がりをそのままあてがわれたらしい。
「つばさくんに、あたらしいのかってあげるから、まりさは、おにいちゃんのをつかいなさいって、おかあさんが……」
眉根を寄せた私に、慌てて彼女が言い募る。
「おとうさんは! かわいいのとかあたらしいの、かってもいいよ? っていってくれるの。でもおかあさんが、わがままはだめよって……おこるからっ!」
「……髪の毛はお母さんが結んでくれる?」
「うんっ! まいにちむすんでくれるの! ちょっといたいけど……すごくかわいいの!」
「そう」
恐らく彼女は、虐待にあっている。
好みでないおさがりだけならまだ理解できる部分もないではないが、性別が違う物を与えるのは酷い。
幼いが故の純粋さで、他人と違う物への評価は厳しく、いじめに繋がるケースもあり得る。
サイズがあっていなくとも気にしない。
成長期にこれは有り得ないだろう。
多少なら大きくても良いが、この場合は大きすぎる。
転んで怪我をしてしまう可能性だってあった。
これから先には恐らく、弟が着古した物も与えられるだろう。
時間が経っているというのに、髪の毛が引き攣れるくらいにきつく編み込まれた髪型。
母親の神経質なこだわりとも見られるが他に気になる点もある。
彼女への理不尽な怒りが込められているとみて間違いなさそうだ。
何より幼稚園児を一人で帰宅させるという、防犯上有り得ない非常識さから、そうと判断した。
特に母親が冷たいようだ。
兄や弟を優先しているところから察するに、娘に嫉妬する性質か、男児にしか興味が持てない価値観なのかもしれない。
父親も母親を止められない時点で同罪だろう。
勘が間違っていなければ、母親の目を盗んで、性的な感情を抱いている気配すらあった。
「かさ、かしてあげる!」
「君が濡れちゃうよ」
「いいの! わたしは、いえ、ちかいから」
「バッグもびしょ濡れだし。傘を貸したなんて言ったら怒られちゃうんじゃないのかな?」
失くしたのに嘘を吐いたんでしょ!
嫌な子!
といった感じの罵声が聞こえたのではないだろうか。
彼女がびくっと体を痙攣させた。
「傘を貸してくれたお礼に、私の隠れ家に来ないかい?」
「かくれが?」
「そう。私しかいない、家だよ。バッグを乾かしている時間だけどうかな? 美味しい飲み物とお菓子をご馳走するよ」
少女はきっと自分と同じだ。
家へ帰る時間は遅い方が良い。
本来なら安堵するはずの家族のそばで安らげないのは悲しいことだが、今の世の中それなりの数、同志はいるだろう。
この子がまだ、幼いうちに出会えて良かった。
現時点では、致命的な悲劇に遭遇していないらしい。
誰が見ても健気で愛らしい彼女だけに、庇護したいと思う者と貶めたいと思う者が今後多く現れるはずだ。
どうにも少女の家族は後者の臭いが酷くする。
「私は、柊喬人≪ひいらぎたかひと≫と言うんだ」
「わたしは、おみないまりさです」
漢字は分からないが随分と変わった名字だ。
調べるのは容易だろう。
こんなに愛らしい子が、兄弟と差別されていれば余計に。
「来てくれるかな?」
差し出した手を、少し躊躇って彼女は掴んでくれた。
小さな小さな温かい手。
妹に手を握り締められたときとは全く違う、穏やかで優しい感情に満たされる。
「たかひとさん!」
目線が合う位置まで抱き上げた。
驚くほど軽い。
「こうすれば、二人とも雨に濡れないですむよ? まりさちゃんは頑張って傘を差し続けてくれるかな?」
「うん! がんばるよ!」
両手でしっかりと傘を持ち直した少女が、懸命に濡らさないようにと頑張る様子は、ただただ愛くるしい。
自分でもこんな微笑が作れるのかと思う、優しげな笑顔のままで、私は揺れすぎないように気をつけながら早足で隠れ家へと向かった。
「どうぞ、入ってください」
「おじゃまします!」
少女は畳んだ傘を傘立てに入れて、脱いだ靴をきちんと揃えていた。
幼さを考えると礼儀正しすぎる気がする。
家庭内で少しでも難癖をつけられないようにしている結果なのかもしれない。
「はい、どうぞ」
「わー! ふかふか! きもちいぃー」
バスタオルを渡せば無邪気に喜ぶ。
「ここに座って少しだけ、待っていてくれるかな?」
ビーズクッションを指差した。
一度も使っていないものだが、少女なら喜ぶだろう。
「はーい」
元気よく返事をする少女の頭を撫でて、濡れた制服を乾燥機に入れて私服に着替える。
髪の毛はタオルで勢いよく掻き混ぜた。
顔を洗えば気持ちもさっぱりする。
「はい。どうぞ。ぬるめにはしたけど、ふーふーしてから飲もうね」
「うん! ……えー? あまい!」
レンジにかけたぬるめのホットミルクには蜂蜜を入れてある。
「口にあったかな?」
「すごく、おいしい! こんなにおいしいのはじめて! ほっとみるく、だよね?」
「そうだよ。蜂蜜を入れてあるんだ」
「はちみつかぁ……」
少女はマグカップの中を覗き込んで何やら妄想しているらしい。
「こっちもどうぞ」
「わぁ……いいにおい……」
昨日作ったばかりの焼き菓子をシリカゲル投入済みの缶から取り出した途端、甘い匂いが躍り出た。
ふんふんと鼻をひくつかせる様子がとても愛らしい。
「ガレットっていうんだ。フランスの焼き菓子なんだよ」
「えーと。ふらんすのおかしっていうと、かくべつにおいしそうなきがするね!」
テレビか何かの知識だろう。
そうだね、と相槌を打てば、ぱくりと開いた口が良い音を立ててガレットを咀嚼する。
胡桃を口一杯に詰め込んだリスのような可愛さ加減には、眦も垂れ下がるというものだ。
「まりさちゃん?」
「……なぁに?」
「私の愚痴を、聞いてもらってもいいかな?」
家族の恥部を広言できるほど低いプライドではない。
だから、一人。
家を出る準備を着々と進めてきた。
高校卒業と同時に、この家で生活できるように、計画は立ててある。
現時点では順調だ。
「わたしでいいなら、なんでもきくよ?」
こてんと首を傾げられた。
反射的に違うお菓子を取り出して皿の上へ置く。
今度はフィナンシェだ。
ビターなチョコレートをがっつり入れてある。
彼女には大人の味が口に合わないかもしれないが、何となく、これはこれで楽しんでくれそうな予感を覚えつつ、口を開く。
「高校卒業と同時に、家を出ようと思っているんだ」
「えーと。じりつ、する?」
「うん。そうだね。両親と姉妹がいるんだけど、過干渉が酷くて……一人になりたいんだ」
「もしかして、まりさ、じゃまだった?」
周囲をきょろきょろと見回してから、不安そうに見上げてくる。
潤んだ瞳に込み上げてきた甘い衝動に、驚いて。
同時に納得した。
どうやら私は、こんな幼い少女に恋してしまったようだ。
羞恥に顔を覆うと、少女の瞳に涙が滲み出す。
大慌てで否定した。
「その、逆だよ。君も……私とは経緯は違うと思うが、家にいたくないと思っているだろう」
「……うん」
「君の家族は言わないかな? 『貴方のためを思って言っているのよ!』って」
彼女の瞳が大きく見開かれる。
涙は目の端からすっと転がり落ちた一滴で止まってくれたようだ。
「! なんでわかったの!」
「私と君が同じだからだよ」
「……おなじ、だから……いっしょでも、いやじゃない?」
「そうだよ。同じだから一緒にいたいと思ったんだ……まりさちゃんは嫌じゃない?」
「たかひとさん、すてきだし! いやじゃ、ないよ」
家族に、赤の他人に、整った容姿を日常的に褒められているが、彼女に言われて初めてそれが喜んでもいい表現なのだと実感できた。
「……いろいろと準備があるから。準備が整ったら、まりさちゃん。私と一緒に生活してくれる?」
「わたしで、いいの?」
「まりさちゃんじゃないと、駄目だと思う」
十七年生きてきて、誰かと一緒に生活したいと思えたのは初めてなのだ。
聡明さと慈悲深さを持って尚、純粋な相手になんて会えるわけがない。
人は年を重ねるごとに、どんどんと純粋さを失っていく生き物だ。
幼い彼女だからこそ、自分をさらけ出せるという点に問題はあるが、それも彼女が喜んでくれるなら悪くはないだろうと思えた。
血が繋がっている奇跡に胡坐を掻いて、彼女を否定し続ける存在よりはよほど彼女に優しいはずだ。
「万全の準備を整えて、迎えに行くからね」
「まってる!」
「時々は会おうね。そのときに状況を教えるよ。あーあと、家族が何か嫌なことをしたら教えてほしい」
「たかひとさんも、おしえてくれるなら」
もじもじとスカートを握り締める彼女をきゅっと抱き締める。
彼女の小さな掌は私の背中をぽんぽんと叩いてくれた。
「約束です」
私も彼女も針千本を飲むはめにはならないと思いながら、初めての指切りをする。
上手い言い訳を考えて彼女を送り届けた。
にっこりと微笑めば、少女の母親は少女を怒るよりも、私に媚を売る醜悪な行動を優先し始めたので成功だろう。
御薬袋≪おみない≫と書かれた表札を再確認して、深々と頭を下げる。
振り返って手を振る彼女に、手を振り返せないのが残念だったが、聡明な彼女は私の微笑が彼女のためだけのものだと、わかってくれたに違いない。
「……これから、忙しくなりそうですね」
どちらかと言えば裕福な部類に入ると思われる、彼女の住まう一軒家を見上げながら、私は彼女と過ごす未来のために思考を巡らせ始めた。