テラーノベル
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奥神楽の山々は、夕刻を過ぎると途端にその輪郭を深い闇へと溶かしていく。
九条川の上流、九条谷の市街地からさらに險しい山中へと分入った先にある『そば処川久』の周囲に
は、文字通り山しか見えなかった。
夜になれば静寂がすべてを支配し、点在する数軒の灯りも、すべて身内のものだった。
「……よし、これで終わりか」
店主の和田は、使い込まれた湯桶を流し台の棚に仕舞い、厨房の勝手口から夜の山を見上げた。
柱時計の太い針は21時を回ったところだ。11時の開店から引きずってきた足の重みを覚えながら、
彼は煤けたエプロンを外す。
かつて和田の家は、この山で木炭を生業として生きてきた。
だが、時代の流れとともに炭の需要は完全に下火になり、生きるために始めたのがこの蕎麦屋だった。
暖簾を守り続けてはいるが、心の中の乾いた虚しさは消えない。
(結局、俺たちはこの山に縛られて生きていくしかないんだな……)
和田が母屋へと続く渡り廊下を歩きながら見つめるのは、敷地内にぽつんと佇む別棟の影だ。
そこには、かつてこの家に新しい風を吹き込んだはずの、外国籍の妻の面影が染み付いている。国際結婚――。その響きは、この閉ざされた村において、祝福ではなく「奇異の目」という静かな排除の対象でしかなかった。
(あいつが生きていた頃は、まだ、この暗い山道にも光があるように思えたのに)
妻は、長女の麗華がまだ中学生という、もっとも母親を必要とする多感な時期に、癌に侵されて逝った。看病の末に妻が息を引き取ったあの日から、和田の時間は半分止まったままだ。悲しみに暮れ、ただ泥のように眠る日々の中で、残された二人の娘の存在だけが、彼を現世に繋ぎ止める細い糸だった。
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