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#シリアス
「……紬。今日から、君の教育係は俺が務める」
ある日の夕食後、伊織様が重々しく宣言した。
差し出されたのは、一冊の分厚い哲学書と、見たこともないほど細工の凝った万年筆だった。
「教育、ですか? 私、読み書きなら父に教わりましたが……」
「いや、足りない。圧倒的に足りないんだ、君には」
伊織様は眼鏡のブリッジを神経質そうに押し上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
その瞳は、いつになく真剣……というより、どこか悲壮感すら漂っている。
「君は俺を『立派な人』だの『慈悲深い』だの、まるでお釈迦様か何かのように崇めているが、それは大きな間違いだ」
「俺は血の通った、欲の塊の『男』なんだよ。それを、身をもって教えてやる」
そう言って、伊織様は私の隣に座り、古書の解説を始めた。
難しい言葉が並ぶけれど、伊織様の教え方は驚くほど丁寧で、分かりやすいものだった。
「……ここは、形而上学的な愛ではなく、もっと泥臭い、人間同士の執着を説いている一節だ。分かるかい? 綺麗なだけじゃない、独占したいという醜い感情……」
「……わぁ」
私は思わず、解説する伊織様の横顔に見入ってしまった。
ランプの灯りに照らされた彼の横顔は、知的な光を放っていて、まるでお手本のような美しさだ。
「……聞いてるのか、紬」
「はい! 伊織様、凄いです。こんなに難しい学問を、私のような者にも分かりやすく噛み砕いて教えてくださるなんて…」
「知識をひけらかすのではなく、相手と同じ目線に立って導いてくださる。その『教育者としての気高さ』、私、心から……尊敬します!」
その瞬間
伊織様の手が、ガクガクと震え始めた。
万年筆が紙の上を滑り、大きなインクのシミを作る。
「……尊敬……また、それか…!」
「違う、俺が教えたいのはそんな高尚な話じゃない! 俺が、君を、どういう目で……っ」
伊織様は万年筆を投げ出すと、私の両肩を掴んで、そのまま畳に押し倒した。
突然のことに、私は目を白黒させるばかりだ。
「伊織様、これは……どのような『教育』の体勢でしょうか?」
「……昇格試験だ。…お前の中で、俺を『尊敬する男』から『一人の男』に昇格させるための、最終試験だよ」
伊織様の顔が、これまでにない近さで迫る。
彼の瞳には、哲学も理屈も微塵も残っていなかった。
ただ、焦れったさと、愛おしさと
我慢の限界を迎えた熱情だけが渦巻いている。
「紬……俺は、君に立派だと思われたいんじゃない…俺を見て、顔を赤くして、声も出ないくらいに…俺を求めてほしいんだ」
伊織様の唇が、私の首筋に熱く押し当てられた。
ぞくり、と背中を走る初めての感覚。
「あ……」と小さな声が漏れると、伊織様は満足げに、でもどこか苦しそうに喉を鳴らした。
「……ようやく、少しは『男』として意識したか? ……尊敬なんて言葉で、俺を遠くに置くのはもうおしまいだ」
伊織様の耳は、もう真っ赤どころか、熱を持って火を吹きそうなほどだ。
余裕たっぷりの遊び人だったはずの旦那様が、今
私の反応一つに一喜一憂し、なりふり構わず自分を誇示しようとしている。
「……伊織様。……私……」
「なんだ。まだ『尊敬』と言うつもりか?」
「いえ。…その、心臓の音が、すごくうるさくて……なんだか苦しいです」
「は……?」
「……でも、嫌じゃありません」
私が顔を真っ赤にして正直に伝えると、伊織様は一瞬目を見開き
次の瞬間、力なく私の胸元に顔を埋めた。
「…………ああ、もう。…君には、どんな哲学書も敵わないな」
「伊織様?」
「……合格だ。……君が俺をどう思っていようと、もう離さない。……覚悟しておけよ、紬」
かつての「帝都の蝶」は、ついに自ら網にかかり
愛する小鳥の腕の中で、余裕ゼロの幸せを噛み締めるのだった。