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「……元貴、本当にいいの?」
涼ちゃんが心配そうに、病室のベッドサイドで尋ねた。
元貴は、少しだけサイズの大きくなった制服の襟を整え、ゆっくりと頷いた。
「うん。……音が消えて、次は色が消える。……僕が『大森元貴』として、あの音楽室の風景を覚えていられるのは、もう今しかないと思うんだ」
耳は聞こえない。
けれど、元貴は涼ちゃんの口の動きを読み、穏やかに微笑んだ。
その瞳の奥には、すべてを受け入れたような、透き通った覚悟が宿っていた。
病院の玄関には、若井が待っていた。
彼は元貴の姿を見るなり、自分のマフラーを外して元貴の首にぐるぐると巻きつけた。
『 寒いからな。ほら、行くぞ。 』
若井はスケッチブックにそう書くと、自然な動作で元貴の左手を握った。
元貴の掌に伝わる、若井の体温。それは今、元貴にとって世界と繋がる唯一の「言葉」だった。
学校は、いつもと変わらない喧騒の中にあった。
けれど、元貴にとっては「無音の映画」のような世界。
生徒たちの笑い声も、チャイムの音も聞こえない。
ただ、窓から差し込む冬の光だけが、教室の机を白く照らしている。
二人は、放課後の旧校舎へ向かった。
階段を一段ずつ上るたび、元貴の足取りが重くなる。
若井は何も言わず、元貴の背中をそっと支え続けた。
音楽室の扉を開けると、そこにはピアノと、見慣れたソファ、そして床に刻まれたあの「傷」があった。
元貴はふらりとピアノへ歩み寄り、鍵盤に指を置いた。
音は聞こえない。けれど、鍵盤を叩く振動が、指先から骨を伝って脳に響く。
「……若井。ギター、弾いて」
元貴が口の形だけでそう言った。
若井は一瞬、泣きそうな顔をしたが、すぐに自分のギターをケースから取り出した。
若井がアンプを通さず、生音で激しく弦を弾く。
元貴はピアノの天板に突っ伏すようにして、その振動を全身で受け止めた。
(あぁ……響いてる。若井の音が、僕の中に流れ込んでくる……)
元貴の視界に、激しいオレンジ色の火花が飛び散る。
それは、音が聞こえていた時よりもずっと、濃密で、熱い色だった。
不意に、元貴がピアノの蓋を閉めた。
「……若井。こっち来て」
若井がギターを置き、元貴の前に立つ。
元貴は、おぼつかない手つきで、昨日覚えたばかりの「手話」を繰り出した。
『 わ・か・い ・ あ・い・し・て・る 』
ぎこちない指の動き。けれど、その指先は震えていた。
若井はたまらず元貴を抱きしめ、その肩に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
元貴には若井の泣き声は聞こえない。
けれど、首筋に落ちる熱い雫と、自分を壊すほどに強く抱きしめる腕の力が、何よりも雄弁に若井の絶望と愛を伝えていた。
「……泣かないで。……若井がいれば、真っ暗になっても怖くないよ」
元貴は若井の背中を、優しく、何度も撫でた。
その様子を、音楽室の影で見守っていた涼ちゃんは、手に持っていたビデオカメラの録画ボタンを静かに押した。
これは、元貴の「最後のお願い」だった。
**『僕が若井のことを忘れてしまったとき、これを見せてあげて』**と。
帰り際、元貴がふと校門で足を止めた。
「……あ」
「元貴? どうした?」
若井が顔を覗き込む。
元貴は、夕焼けに染まる校舎を見つめたまま、愕然と呟いた。
「……オレンジ色が、……薄くなっていく……」
夕日が沈むからではない。
元貴の視界から、少しずつ、少しずつ「色」が剥がれ落ちていた。
鮮やかだった若井のオレンジ色が、くすんだ灰色に溶けていく。
「……若井、急いで。……僕の目が、閉まっちゃう前に……君の顔、もっと見せて」
若井は元貴の手を強く引き、走り出した。
灰色の世界に飲み込まれまいとする、二人の最後の逃避行のように。