テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
45
#茜
💎星乃葵@ペア画中.ᐟ💎
1,178
りおりんご🍎
2,407
今中希美
28
王都を見下ろす丘の上で、仁人は、道端の平たい石に、紙を広げた。
朝靄は、まだ、地面の近くに留まっていた。
東の空が、淡く白んでいる。
遠く、王都の丸屋根の列が、薄い光を受けて、静かに浮かんでいた。
仁人は、丘に登りきったところで、一度、振り返った。
三月前の夜明け、古都の炎を背にして、自分は、振り返れなかった。
今は、振り返れる。
門の前で別れてから、まだ半刻も経っていない。
仁人の胸には、三人の顔と、「また、会おう」という声が、残っていた。
「これを」
勇斗が、懐から、小さな筆入れを取り出した。
細い筆と、墨を含ませた小壺が、一つになった携帯用のものだった。
「紫の都の市場で、買っておいたんだ。いつか、必要になると思って」
仁人は、それを受け取ったまま、少し、黙っていた。
「……いつから、そんな準備を」
「お前が、最後の一行を、空白のまま、懐に入れていたのを見てからだ」
勇斗は、決まり悪そうに、頭を掻いた。
仁人は、小さく笑って、筆を取った。
紙の上には、これまでに書き溜めた行が、並んでいた。
古都の夜、船の上、紫の都の宿、ベンチの傍らで、何度も読み返した言葉たち。
その最後に、一行分だけ、空いている。
仁人は、しばらく、その空白を見つめていた。
後ろに、勇斗の気配があった。邪魔をしないように、少し離れた場所に立って、待っている。
仁人は、ふと、振り返った。
勇斗が、いた。目が合うと、勇斗は、何も言わずに、ただ、静かに笑った。
仁人も、笑い返した。
そして、前を向き直り、墨を含ませた筆を、紙に落とした。
迷いは、なかった。
一行を書き終えて、筆を置く。
墨が乾くのを待つ間、仁人は、紙を両手で持ち上げ、声に出して、それを読んだ。
「――振り返るたび、君がいる。それは、帰る場所」
朝の空気に、その声は、まっすぐに溶けていった。
しばらく、どちらも、何も言わなかった。
「それが、最後の行か」
「はい。……まだ、直すかもしれませんが」
「いや」
勇斗は、首を振った。
「それで、いい」
その声が、少しだけ、掠れていた。
仁人は、気づかないふりをして、紙を丁寧に畳み、懐にしまった。
丘を、風が渡っていった。草の波が、さらさらと鳴る。
「勇斗」
「ああ」
「これから、どこへ行きましょうか」
仁人は、東の空を見つめながら、続けた。
「僕は、見てみたいんです。……舜太殿が、作ろうとしている国を」
勇斗が、瞬きをした。
「王都を見て、そして、あの人に会って、思いました。あの人は、征服した都を、焼かなかった。母上の部屋を、花で満たして守ってくれた。一人の人間として息ができる国を作りたいと、あの人は言いました。……僕が、あの人の立場だったら、同じことが、できたでしょうか」
仁人は、静かに首を傾げた。
「分かりません。でも、あの人が、どんな国を目指しているのか、この目で見たい。赤の王が作る国を、どこまでも、見に行きたいんです」
「どこまでも、か」
「ええ。そして、行く先々で、黄色の国の舞を、舞いたい。母上の国の舞が、国境の向こうでも、生きていることを、示したいんです。紫の都で、あの人たちが、足拍子を刻んでいたように」
仁人は、少し笑って、付け加えた。
「それに、約束しましたから。今度は、昼間に、と」
そこまで言って、仁人は、勇斗を見た。
「それが、僕の願いです。……ようやく、言えました」
勇斗は、驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと、息を吐いた。
「君は?」
仁人が、問うた。
「君の願いは、何ですか。もう、あの夜に聞きました。でも、今のあなたの口から、もう一度、聞きたいんです。……話すと、約束しましたから」
勇斗は、一瞬、言葉を探した。
それから、仁人の目を、まっすぐに見て、答えた。
「お前が、舞って、詩を書いて、笑っている。その一番近くに、いる。それだけだ」
「……それだけ」
「それだけで、十分すぎるほどだ」
仁人は、何も言わなかった。
ただ、手を伸ばして、勇斗の手を取った。
二人は、並んで、歩き出した。
丘の道は、東へ、緩やかに下っている。
草の間に、乾いた何かが、朝露に光っていた。
仁人が、足を止めて、それを拾い上げる。
蛇の抜け殻だった。薄く、透き通った、白い皮。
「……脱皮、ですね」
「縁起がいいな」
勇斗が、覗き込んで、笑った。
「白い蛇は、脱皮を繰り返して、決して滅びない。この国の民が、そう信じてきた」
「僕たちも、そうでしょうか」
「ああ。一度、死んだ。そして、ここにいる」
仁人は、抜け殻を、そっと草の上に戻した。
しばらく、無言で歩いた。
やがて、仁人が、ふと、足を止めた。
ほぼ同時に、勇斗も、足を止めていた。
どちらからともなく、互いを、振り返った。
目が合った。
仁人は、勇斗が、自分を振り返っていたことに、気づいた。
勇斗もまた、仁人が、自分を振り返っていたことに、気づいていた。
二人は、同時に、笑った。
どちらが先でもなかった。
ただ、互いが、そこにいることを、同じ瞬間に、知っただけだった。
「行きましょうか」
「ああ」
朝日が、丘の稜線を越えて、二人の背を、照らし始めた。
長く伸びた影が、一つに重なって、道の上に落ちる。
仁人が、東の空を見上げて、言った。
「赤の王が作る国を、どこまでも、見に行きましょう」
勇斗は、隣で、その手を、確かに握り返した。
「君と、どこまでも」
風が、草を鳴らした。
二人の歩みの先に、まだ見ぬ国々が、朝の光の中に、静かに広がっていた。
コメント
1件
るりさん、最終章、読み終わりました……。 「振り返るたび、君がいる。それは、帰る場所」 この最後の一行が、もう、胸にぎゅっときました。 脱皮の抜け殻、朝日の中を並んで歩いていく二人。 「君と、どこまでも」——その言葉だけで全部伝わる。 仁人がようやく振り返れるようになったのが、本当に嬉しかった。重くて優しい、素敵な終わり方でした。ありがとうございます。