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「ねーえ。どうしてそんなしかめっ面しているのー。似合わないよー?」
明るい声で呼びかけられ、顔をあげると、そこには、女の子がいた。無邪気で、相手に対するまっすぐな好意が読み取れる笑みを浮かべて。
人間のこんな表情を、久々に見た。父は、母の件で負い目を感じているプラスおれの能力を知っているゆえ、顔を突き合わせて話すことはほとんどないし――おれは、夕食のときは、食事を部屋に運び、ひとりで黙々と食べている。茶の間で食べたところでテレビは時代劇固定で朝江さんの自慢話や近所ネタを聞かされ面白くもなんともないし、家のなかにも、外にも、理解者がいなかった。
小学六年に進級したばかりの、春だった。
男であれば男同士で群がるのが当たり前だというのに、おれは、孤独を貫き、そんなおれを気遣い、仲間に入れてようとするやつらも現れたのだが、毎回、おれは言い放った。
『選民思想が透けて見えんだよ。仲間に入れてやるおれかっけー、的な。めんどくせーからおれと関わんなバーカ』
それを何回か繰り返せば流石に彼らは学習するらしい。よっておれは、ひとりきりで過ごした。
ところが、クラス替えをして、メンバーが入れ替われば、たまに、こういう馬鹿が現れる。めんどくせえ。
話しかける女の子に無視を貫き、おれは、本を読んだ。
すると、彼女は下からおれの顔を覗き込んでくる。――ええい、鬱陶しい。
女ってのは、どうしてどいつもこいつも面倒くせえんだ。いい加減にしろ。
思い通りにならねーとびーびー泣きやがる。男と違って女は、泣き虫が多い。
このビジュアルを生かして色魔になれなくもないのだが、でも結局おれはその道を選ばなかった。
ただひたすらに、面倒くさいのだ。ひとと関わることが。――彼らは、結局、期待をする。つまり、おれに対し、なにかしらの施しを分けてくれまいかと。おこぼれをくれまいかと。あの朝江さんでさえも、おれみたいな朴念仁の孫に対し、愛想を振りまくことを期待するのだから。
誰が、母を、追い出したと思っている。
ところが、朝江さんのほうは、おれに対して謝罪もなにもない。自分が悪いことをしでかしたなどとは、思ってはいないのだ。自分が正しい。あれは、そう考えるタイプの人間だ。
「……なんの本、読んでんの?」
答えるのが面倒でおれは文庫本から視線を譲らず、頁をめくる。と女の子が、
「……ふが」
「……!」
豚鼻を作る。というか、結構可愛い部類の顔に入るのに、駄目だろんな顔しちゃ……。
「……ぶっ」
結果、おれは、負けた。
いまのおれであれば、強面を保てたであろうが、おれだって、性に敏感で女の子にも興味のある、いっぱしの小学生だったのだ。
女の子は、千夏(ちなつ)と名乗った。
「千夏でいいよー。けーいっ」
ランドセルを背負う、下校中。低学年の頃は朝江さんが迎えに来てくれたが、もう、そんな時期を過ぎている。ほどほどに子どもであることを要求され、ほどほどに自立することを強いられる。生きることは不自由だなと……おれはそのとき、そんなことを考えていた。
「……圭ってば。ねーえ。さっき、なんの本読んでたのぉー?」
舌ったらずな喋り方をする女の子だと思った。売り出したての巨乳アイドルみたいな。けども、千夏の場合は作為的ではなく、ナチュラルにそういう喋り方をする――と気づいたときに、忘れていたはずのパンドラの箱に手をかけていたことに気づいた。
『言いたいことを、言うの。やりたいことを、やるの。誰がなんと言っても。……強くなってね』
――母さん。
おれは、いろんなことを、ひとりで出来るようになった。
オナニーも出来る。ご飯も炊ける。朝江さん秘伝のきんぴらごぼうも作れるようになったんだ。自力でな。なのに、……あなたは、おれの前に、現れない。何故だ。
「……圭ってば」
千夏に催促され、おれは、意識を現実に戻した。「……『人間失格』」
「……ってドラマの?」
「いや違う。太宰治の。……ドラマがあるの?」
「うん。KinKi Kidsが出てたやつ。野島伸司脚本の、赤井英和が出てる。昔のドラマだけどねー」
「……ふぅん」
「興味あるのなら配信で見れるよ。ただ、かーなり、エグい。あれ見たら人間不信になっちゃいそうだ。いかにも、太宰好きな圭が好みそうな代物だねー」
それから、一週間かけて、全話見た。
一言では言い表せない。いまの自分に響く内容だった。
あらすじは、凄惨ないじめに遭う男の子が追いつめられ自殺し、いじめの事実を知った父親が復讐鬼と化すもので……なんだか、これを知ったタイミングといい、おれのためにあるようなドラマだと思った。
とはいえ、おれのために、父が復讐をしてくれるとまでは、考えられないが。なんせ、母と春江さんとのこじれにこじれきった関係に、不干渉を貫いた人間なのだから。
あんなにも、愛される息子が、妬ましかった。
切なかった。自分と比べると。
けれど、これは、ひょっとしたら、神様がチャンスを与えてくれているのかもしれない。
毎日すこしずつ見て、最終的に、コンプリートしてから、おれは、感想を千夏に述べた。学校でおれたちはふたりきりで喋るようになっていた。明るい千夏は、誰とも親しくて、周囲の人間は、人気者の千夏ちゃんがぼっちの石田くんをかまってやってるー―そう思っているようであった。
「見たよあれ。すごかったな。感動したよ」――言葉とは、なんと虚しい道具なのだろう。あの作品から得た感動を、こんなにも陳腐でありふれた言葉でしか表現出来ないとは。自分の無能ぶりが、恨めしい。
「そっかー結構エッチな内容もあったけど、圭、大丈夫だった?」
きひひと千夏が笑い、おれは頬を膨らます。「……当たり前だろ」
「圭って案外感情豊かなんだね。ぶすーっとしてるより、全然いいと思うよー。明るい圭が、わたし、大好き!」
思いもよらぬ言葉に、おれの時間が止まった。
「千夏……、いま、なんて……」
「ごめん。聞かなかったことにしてくれるとやっぱ嬉しい」
周囲の喧騒をよそに、何故か、千夏は顔を赤らめる。その目を覗き込んでも、何故か、感情が読み取れなかった。おれは、そのことに、愕然とした。――ある感情のせいで、自分の能力が失われていることに、気づいたのだ。
馬鹿か、おれは。
自分にとって一番なにが大事なのか? 決まっている。
自分が自分であると、誇れる感情の正体――ではないか。
それからすぐに、千夏は、自席へと戻っていった。いつも、おれの席に来て喋るのが、彼女のスタイルだ。とはいえ、誰とでも分け隔てなく話せる彼女は人気者で、おれの席に来る前に、他の誰かに捕まって喋って結局おれの席に来れない――ということも多々。
おれは、別に、それで、よかった。
千夏。名は体を表すと言われるがそれは本当だ。ボーイッシュなショートカットでさっぱりとした性格の彼女は、男女問わず人気だ。いつも誰かに囲まれている。『誰か』のほうが放っておかないのだろう、彼女のことを。
おれは、ある意味、無自覚であった。人気者である彼女を、独り占めすることが、周囲にどういうインパクトを与えるのか。
それを、あんなむごいかたちで知らされるとは――。
このときのおれは、思いもしなかったのである。
*