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#パワハラ上司
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昨日の夜、執念で特定した代官山のカフェ。
予約客で溢れかえる店内を縫うように歩き、私は窓際の角の席へと滑り込んだ。
そこは、サヤが昨日座っていた、聖域そのものだ。
「……ここだ」
実際にその場所に座り、視線を落とすと
スマホの小さな画面越しに見ていた景色が、現実という鮮やかな輪郭を持って私に迫ってくる。
サヤが見ていた街路樹の揺らぎ
指先が触れた大理石の冷たい質感
彼女が吸い込んだであろう、豆の焦げた苦いコーヒーの香り。
私は、サヤが投稿した写真と一ミリの狂いもなく同じ角度で、同じメニューのエッグベネディクトを注文した。
運ばれてきた皿を前に、私はまず
サヤが以前の投稿でさらりと置いていたのと同じブランドのバッグを、テーブルの端に置く。
中身は空っぽだ。
このバッグを買うために、先月の食費をすべて削り、水道水を飲む日々を耐え抜いたのだ。
今の私には、食べるものより、彼女と同じ記号を持つことの方が重要だった。
「……完璧」
バッグの配置、ナプキンの折れ目
フォークの角度。
スマホを構え、フィルターの彩度やコントラストを調整する。
何度も撮り直し、サヤの投稿と見比べ、また撮り直す。
私のSNSのフォロワーは、たったの三人。誰からの反応もない、静かな海だ。
でも、そんなことはどうでもいい。
私が、今、サヤと同じ時空に溶け込んでいる。
その事実だけで、身体中の血液が逆流するような
指先が熱くなるほどの興奮が全身を駆け巡っていた。
私は震える手でフォークを持ち、卵を一口、口に運ぶ。
「…………」
味がしない。
サヤは「口の中でとろけるような美味しさ!」と綴っていたのに。
私の舌には、ただ冷めた油脂の味と、無機質な食感しか残らない。
私の身体が、まだ「サヤ」の感性に追いついていないせいだろうか。
私は焦燥感に駆られ、もう一度口に運ぶ。
やはり、虚無だ。
その時だった。
テーブルの下、椅子の脚の影に、小さな金属の光が落ちているのを見つけた。
手を伸ばして拾い上げると、それは小さな、銀色のピアスだった。
夜空を切り取ったような三日月の形。
見覚えどころか、瞼に焼き付いている。
三日前のサヤの投稿。
自撮り写真の中で、彼女の華奢な耳元で揺れていた、あのお気に入り。
「……あ」
心臓が、耳の奥でドクンと跳ねた。
サヤの、落し物。
サヤの、体の一部だったもの。
私はそれを指先で転がし、そっと自分の右耳に当ててみた。
冷たい金属が肌に触れる。
その温度差が、脳内に異常な快楽を運んでくる。
「ねえ、サヤ。……これ、返してほしかったら、私のところに来てくれる?」
私は周囲の視線を気にすることなく、ピアスの鋭い針を、自分の耳たぶに押し当てた。
穴なんて開いていない。
けれど、迷いはなかった。
一息に、力いっぱい突き刺す。
「ッ……!」
耳たぶを引き裂く痛みが、世界を真っ白に染め上げた。
ツーと流れる赤い血が、銀色の月を濡らす。
サヤと同じ三日月が、私の血を糧にして、今、耳元で静かに輝き始めた。
痛みが引くたび、私はまた一歩、彼女の領域へ近づいていく。
次は、何を残してくれるのだろう。
私は血を拭いもせず、再びスマホを構え
今の「サヤの一部となった私」をシャッターに収めた。
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