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#パワハラ上司
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耳たぶに残る、絶え間ない鈍い痛み。
鏡を覗き込むたび、サヤの忘れ物だった三日月のピアスが、私の耳元で不自然に揺れている。
自ら抉り開けた傷口から、彼女の魂が私の体内に溶け出していくような感覚。
それだけで、冷淡な世界が私をようやく「サヤ」として認識し始めてくれたような
甘美な錯覚に酔いしれていた。
「……次は、これ」
私は、サヤがごく親しい友人にしか教えていないはずの「裏アカウント」を、既に特定していた。
キラキラした表の投稿とは違う、無防備な日常の呟き。
写真の端にわずかに映り込んだスーパーのレシートのロゴ
窓ガラスに反射した深夜営業のコンビニの看板
街路樹の種類。
それらを執拗にパズルのように組み合わせ、私はついに、彼女が潜む真実の座標を導き出した。
そこは、瀟洒な高級マンションが整然と立ち並ぶ、静謐な住宅街。
私は、サヤの生活圏にあるクリーニング店の前で
何時間も息を潜めて立っていた。
腕に抱えているのは、彼女がSNSで「一生もののお気に入り」だと綴っていたブランドのワンピース。
もちろん、フリマアプリで血眼になって探し出した中古品だ。
「あ、すみません。これ、サヤさんの……あ、失礼。佐藤サヤさんの忘れ物じゃないですか?」
私はレジに立つ店員に、極めて自然な、親しげな友人を装って声をかけた。
「えっ、佐藤様……。あ、いえ、特にお預かりはしておりませんが……」
「そうですか。彼女、いつもここを使ってるって言ってたから、てっきり……」
困惑した店員が、確認のために台帳を捲るその一瞬。
私はカウンター越しに身を乗り出し、獲物を狙う獣のような鋭さでその紙面を覗き込んだ。
(……あった)
『佐藤サヤ 203号室』
乱雑に殴り書きされた住所と部屋番号。
私はその文字列を網膜に焼き付け、何食わぬ顔で店を後にした。
心臓の鼓動が、薄い胸を突き破らんばかりに高鳴っている。
その日の深夜
私はサヤのマンションの裏手にある、ゴミ集積所にいた。
重厚なオートロックの向こう側。
住人が出入りする一瞬の隙を突いて、私は「サヤの世界」の裏側へと、音もなく滑り込んだ。
整然と積まれた真っ黒なビニール袋を、一つひとつ慎重に、かつ情熱的に解体していく。
鼻を突く生ゴミの臭いなんて、今の私には高級香水の香りよりも芳しく感じられた。
これはゴミではない。
サヤの人生の、生々しい断片なのだ。
「……見つけた」
指定の袋の中から、サヤがSNSで宣伝していた高価な美容液の空ボトルが転がり出た。
そして、その奥。他のゴミに紛れるようにして、ぐちゃぐちゃに丸められた数枚の紙片。
『最終通告』『至急お支払いください』
赤字で印字された、あまりに生々しく醜悪な文字。
(……え?)
画面越しに見ていた、あの非の打ち所がないキラキラした日常とは、あまりに不似合いな現実の残骸。
サヤの虚像が、私の指先でカサカサと乾いた音を立てて崩れていく。
そのとき
背後でカツン、と硬い靴音が響いた。
同時に、私のポケットの中でスマホの通知音が鳴り響く。
それは、私が「サヤ」になりすまし、彼女の交際相手───通称『サヤの彼氏』のアカウントへ送ったメッセージへの返信だった。
『今、下に着いたよ。早く開けて』
顔を上げると、マンションのエントランスの薄明かりの中に、一人の男が立っていた。
男は暗闇に佇む私に視線を固定すると、ゆっくりと、陶酔したような手つきで手を振った。
「……サヤ、そこで何してるの?」
男の瞳は、暗闇の中で異様な光を湛え、ギラついていた。
私は手の中の督促状を握りしめたまま
鏡の前で練習したあの「幸せな笑顔」を、ゆっくりと顔に貼り付けた。