コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
世界が沈黙したあと、残されたのは、風のない夜と、燃え尽きた神殿の残骸だった。
セラフィエルはその中心にいた。
半ば崩れた翼をたたみ、膝をつく。
かつて自らの光を失った胸の奥に、いまだ温もりがあった。
——リシアの名を呼ぶたび、その鼓動が蘇る。
けれど、彼女はそこにはいなかった。
黒い月が沈みきった夜明け前。
光の届かぬ闇の彼方で、彼は再び“彼女”を見つけた。
だがその姿は、もうリシアではなかった。
黒と金の光を纏い、静かに宙へ浮かぶ。
その瞳は、かつてリシアが見せた柔らかな光を失い、
どこまでも深い、海の底のような静謐を湛えていた。
——ネレイア。
闇の女神。かつてセラフィエルが天に仕えていた時、
“封印”の儀式で自らの手で葬った存在。
「久しいな、セラフィエル。」
その声は、懐かしくも冷たい。
まるで何百年も前の祈りの残響のようだった。
「……リシアを、返してくれ。」
彼は震える声で言った。
ネレイアは微笑む。
「返す? いいえ、私と彼女は一つになったの。
あなたが与えた光は、彼女の中で私と混じり合った。
あなたが救おうとした“少女”は、もういない。」
セラフィエルは胸を押さえる。
痛みが走る。
だがその痛みの奥に、確かに“彼女”の気配があった。
「……嘘だ。まだリシアはいる。
お前の中で、泣いている。」
ネレイアの表情が一瞬、揺らいだ。
だがすぐに、金の光がその頬を撫でる。
「もしそうだとしても——それが何になるの?
あなたが私を封じ、神々が私を滅ぼした時、
あの子の魂が私を呼んだ。
“光が欲しい”と。
私は与えた。ただ、それだけ。」
セラフィエルは顔を上げた。
「違う。お前は彼女の渇きを利用しただけだ。
お前が求めているのは——復讐だ。」
「復讐?」
ネレイアは笑う。
その笑みは美しく、残酷だった。
「あなたたちが“正義”と呼んだ光が、どれほど多くの闇を殺したか、
覚えているの?」
風が吹く。
黒い羽根がひとひら、彼女の足元に落ちた。
「あなたが私を封じた夜、
あなたの手は、優しかった。
だからこそ、私はずっとあなたを憎めなかった。」
セラフィエルの心臓がひとつ強く脈打つ。
ネレイアの瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、
“リシア”の面影が見えた。
「リシア……?」
彼が呼ぶと、
女神の瞳が微かに揺れた。
「……やめて。」
その声は、確かにリシアのものだった。
だが、すぐに闇がそれを呑み込む。
「もう、私は誰でもない。
あなたが愛した少女も、あなたが封じた女神も、
同じものなの。」
「それでも……俺は、信じたい。」
セラフィエルは手を伸ばす。
その指先から、かすかな光がこぼれる。
「お前が何であろうと、
この光が届くなら——
俺は、もう一度、お前を抱きしめたい。」
ネレイアの頬に、一滴の涙が落ちた。
黒い涙だった。
それが地に触れた瞬間、地平が震え、闇が波打つ。
彼女は囁く。
「あなたは、やっぱり愚かね。
でも……そんなあなたが、まだ好き。」
そして、二人の影が重なる。
黒と白。
神と人。
愛と憎しみ。
その境界が、完全に溶けていく。
——空が裂け、黒い光が天を貫いた。
天界が再び動揺し、
“堕天連鎖”の余波が世界に広がる。
けれど二人は、そのすべてを知らなかった。
互いの唇が触れる、その瞬間だけ、
世界は確かに、ひとつになっていた。