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他の部署の鳴りっぱなしの電話があれば見かねて必ず出る。「大変お待たせをしております。ここちよくカンパニーでございます」その声音は、心地よく彼の鼓膜を揺らす。
プリンタのコピー用紙がすっからかんになる前に必ず補充してくれる。
座席移動をするひとがいれば率先してテーブルなどの掃除をしてくれる。椅子はころころで綺麗に。
新しいひとが入れば一声にこやかに声をかけてキャンディなんかをあげている。
電話対応はエレガントで、その声はとっても聞き心地がいい。
しかも、アラフォーとは見えない若見えの美貌で正直に。既婚者子持ちだと知らなければ、仮に、出会ったのがバーだったならば口説いていたかもしれない。ボブカットが似合うのは世界中でただひとり広瀬すずだと思い込んでいた、過去の自分をどやしてやりたい。
ひとと話すときは必ず相手の目を見てきちんと話す。声をかけられれば立ち上がる。
服装はいつも素敵で感じがいいもので、しかし、時々カジュアルダウンして、サロペットにTシャツを着こなすさまなんかは十代のように可愛い。
他方、丸の内を闊歩するOLさんみたいな服装のときもあり、……どぎまぎする。
以上が、広岡才我の、鷹取有香子に対する感想である。……充分に恋である。
しかしながら、あくまで、職場における上司と部下との関係。ヒビを入れるつもりも盛り上げるつもりもなかった。――あの日が来るまでは。
子どもたちが夏休みに入る期間だというので、七月の最終週の週末に、会社のみんなで、家族連れでキャンプに行くことになった。
キャンプ場の傍に湖が近くにあり、アクティビティも楽しめる。川と違って増水しないから危険もない。……と思っていたのだが。
思わぬところに落とし穴があった。
* * *
鷹取と近距離住まいの広岡が、途中で鷹取をピックアップすることになっていた。マンションの住所を教えて頂き、親子三人が建物の前で待っているはず……だったのだが。
その姿を見て驚いた。あれ。ご主人は……。
やや浮かぬ顔で鷹取は、車を降りて声をかける広岡に答えた。「主人は、昨日、仕事が遅かったようで……申し訳ないですが、息子の詠史とふたりで参加します。当日の連絡で申し訳ありません」
「あ……いや……」そんなことがあるのか? じゃあ、目的地までのドライブは――。
荷物を持ち、トランクに運び入れる広岡に、鷹取が礼を言う。「あと、すみませんが……うちの子、車酔いしやすいので……酔い止めは飲ませておいたのですが……後ろの席に座らせても大丈夫ですか?」
「ああ、勿論」と何気なく広岡は答えていたのだったが。息子の詠史くんは小学生で、チャイルドシートが不要と思われる、結構背の高い少年だ。広岡を見るとはきはきと挨拶をしてくる、好青年。……だが。
助手席を空けておくのもなんだし、と思って鷹取に座って貰った。後部座席で最初は、詠史くんはタブレットをいじっていたが母親である鷹取に五分以内よ、と声をかけられ、やがて……寝てしまった。
広岡の趣味はドライブである。あまり夜更かしはしない主義だが、二週間に一度程度、真夜中にドライブをする。道路も空いていてとても気持ちがいい。ベイブリッジや横浜なんか行くときらびやかでとても……満たされる。宝石箱のなかに迷い込んだみたいだ。
隣にいる鷹取は、運転する広岡に気を遣ってか、ペットボトルのお茶を持参しており、彼のために開けてくれた。「広岡さん。いま、飲まれます?」
飲み込まれそうなのは自分だ――と広岡は思った。
鷹取といえば、肩に穴の開いた、清楚な白のトップスに、下はダルブルーのカーゴパンツといったスタイル。キャンプなのを意識してか、顎よりやや長めの髪を、後ろで、束ねている。……滅多に見ない白いうなじを見た瞬間吸い付きたくなる欲求を抑え込むのが大変だった……中学生かよ、と広岡は自分に突っ込みを入れたくなる。
どうも、会社外で会っているということもあって、つい、プライベート目線で見てしまいそうになる。悟られぬよう振舞うのが精いっぱいである。
「ありがとう」動揺を押し隠し、広岡は、ペットボトルを受け取り、口をつける。ほろ苦い味がした。まるで、隣の助手席に座る、鷹取有香子への恋心のように。「安全運転で参りますね」
「わたし、……ペーパードライバーなんです……運転できなくって申し訳ありません」
いやいやきみは隣に座ってくれているだけでいいんだよ。
――この気持ちは、封じ込めなければならない……。
「全然」と、タブレットでゲームをしている様子の詠史くんに配慮をした広岡は、「ちょっと小さめに音楽流すね」
すると音楽を聴いた鷹取の目が輝いた。「わー。Vaundyお好きなんですか? 広岡さん」
好きなひとと好きなものが同じだと苦しくなる。切なくこみ上げる気持ちを堪え、広岡はなんとか、「推しだよ」と答えた。
一泊二日のキャンプ旅行はまだ始まったばかりである。そしてこの旅行こそが、鷹取と広岡の関係に重大な変化をもたらすこととなるのだった。
*