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キングスクロス駅の裏手──ネオンの光が濡れた舗道に反射して、街全体が仄かに揺れて見えた。人通りの少ない路地。 パブの笑い声も、遠くの車の音も、すべてが他人の世界のように感じられる。
Aは、その隙間に身を潜めるようにして、建物の影にしゃがみこんでいた。
ダンボールが一枚、地面に敷かれている。そこが、今夜の“家”。
コートの襟を立て、震える膝を抱える。
「………………」
冷たい風が頬を撫でるたび、Aは小さく息を吐いた。
──携帯の電源は、もう切ってある。
誰にも、見つからないように。
誰にも、見つけられないように。
「……おい、坊主」
背後からかけられた声に、Aの身体がぴくりと反応する。
足音もなく近づいてきた影──汚れた上着に、ぼさぼさの髪。中年の男が、Aの寝床を覗き込むようにしてしゃがんだ。
「そんな若ぇのに……ホームレスかよ」
Aは答えない。
視線を逸らしたまま、肩をすくめるだけ。
「……チッ、愛想ねえな。おめぇも……飛ぶか?」
そう言って、男はポケットから小袋を取り出す。手のひらには、《白色の粉末》が入ったパックがあった。
「ひと吸いで全部忘れられるぜ……クソみたいな現実も、嫌な事も、何もかもな──」
しばらく、沈黙が落ちた。
風だけが吹いている。
そして、Aは──
ぽつりと口を開いた。
「……おじさん」
男が眉を動かす。
「それ……いくら?」
一瞬、男の顔に“商売人”の色が浮かんだ。
Aは恐れていない。
感情もない。
目の前の楽にすがる。
男は、Aを全身見定めた。
「……ふむ」
口元が歪む。
「……そうだな」
わざと間を置く。
「若いのには高ぇぞ? 800ポンドだ」
相場の何倍もの値だった。
普通なら、笑って断る金額。
だが。
Aは、何も言わない。
ただ、ポケットに手を入れた。
財布を取り出す。
開く。
中には、紙幣がぎっしり詰まっていた。
「なっ……!」
男の目が、一瞬だけ見開かれる。
Aは、無言で800ポンド以上の札束を掴むと──そのまま、ドサッと男の手に乗せた。
「……これで足りる?」
声に温度がない。
値切りもしない。
疑いもしない。
男は、思わず笑った。
「……おいおい、マジかよ」
札を数える。
800ポンドどころじゃない。
「坊ちゃん、太っ腹だな……」
Aは、視線を上げない。
「……いいから」
短く言う。
「頂戴」
その一言だけだった。
男は肩をすくめると、小袋をひとつ取り出し、Aに差し出した。
「ほらよ。初回サービスだ、少し多めに入れてやる」
Aは、それを受け取る。
ただ、男の手にある袋を見つめていた。
「……」
ほんの一瞬だけ、思考が止まる。
ネオンが滲む。
遠くでサイレンが鳴っている気がした。
(……これで、全部)
Aは袋を受け取ると──ためらいもなく、口を開けた。
粉末を、そのまま全て流し込む。
「お、おい……ッ」
男の声が一段、引いた。
Aは咳き込まない。
水も使わない。
ただ、全部を飲み込んだ。
袋の中身は、一粒残らず消えた。
「……は、はは……そこで丸飲みかよ……」
男は乾いた笑いを漏らす。
さすがに様子がおかしいと感じたのか、半歩だけ距離を取った。
Aは何も言わない。
そのまま、段ボールの上へと横になった。
膝を折り、腕を抱え、街を見上げる。
ネオンが、ゆっくりと歪んでいく。
「……おい」
次の瞬間。
カチャリ、と冷たい金属音。
視界の端に、拳銃が突きつけられていた。
「お前、結構金持ってたな。……寄越せ」
「……」
Aは、動かない。
「聞こえてんだろ? ガキ」
無言。
呼吸だけが、浅く、速い。
数秒の沈黙。
やがて──
Aの手が、ゆっくりとポケットに入る。
財布を取り出した。
男の目が光る。
だが。
次の瞬間。
「……」
Aはそれを──そのまま、男の顔面へ叩きつけた。
「ッぶ!?」
男がよろめく。
その隙に奪うでも、逃げるでもなく──Aは動かない。
ただ横になったまま、目を閉じる。
「……チッ、クソガキが」
苛立った男は、八つ当たりのように──ドンッ、とAの背中を蹴り飛ばした。
衝撃が走る。
けれど、Aは声を上げない。
「けっ……死にかけが」
吐き捨てるように言うと、男は財布を掴み、足早に闇へ消えた。
足音が遠ざかる。
ネオンだけが、瞬いている。
Aは、動かない。
呼吸は浅く、意識は揺れていた。
──目の奥には、まだ消えない炎が残っていた。
(……もう、いい……)
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
張り詰めていたものが、ゆっくりと、ほどけていく。
(……死にたい……)
声にはならない。
喉は乾ききっていて、空気だけが漏れる。
瞼を閉じると──あの光景が浮かぶ。
燃え落ちる機体。
夜空を裂く炎。
無数の命。
(……僕は……)
指が、わずかに震えた。
(何も出来なかった)
もし、僕の頭がもっと回れば──
僕が、Lを説得できたら──
僕じゃない“誰か”が、Lだったら──
こんな事にはならなかったはずなのに。
名だけ。
肩書きだけ。
責任だけ。
結果は──あれだ。
空の上に、全部置いてきた。
時間の感覚が、曖昧になる。
何分経ったのかも分からない。
ただ、二十分ほど過ぎた頃──
じわり、と。
身体の奥から、何かが広がった。
思考が、鈍る。
痛みが、遠のく。
胸の重さが、薄れていく。
(……あ……)
息が、楽になる。
さっきまで胸を締めつけていた罪悪感が、霧みたいに溶けていく。
(……もう……いいじゃないか……)
ネオンが綺麗に見えた。
寒さも、空腹も、どうでもよくなる。
(……僕は……生きてる……)
それだけでいい。
今ここで、息をしている。
それで十分じゃないか。
あの子たちは──死んだ。
でも、自分は生きている。
(……それで……いい……)
思考が、さらに緩む。
責任。
後悔。
罪悪感。
全部、誰かのせいにしてしまえばいい。
(……全部──Lが悪いんだ)
あの判断。
あの命令。
あの撃墜。
僕じゃない。
僕は止めた。
僕は嫌だと言った。
(……だから……)
悪いのは──L。
僕じゃない。
(……僕は……悪くない……)
胸が、落ち着いていく。
心が、沈んでいく。
ネオンが滲む。
音が遠くなる。
Aは、段ボールの上で丸まりながら──ぼんやりとした安堵の中に、沈んでいった。
……そして。
瞼を閉じた、その奥で。
声がした。
ひとつじゃない。
ふたつでもない。
──もっと、多い。
子供たちの声。
最初は遠く。
やがて、すぐ耳元で囁くように。
──ねえ……どうして、落としたの?
僕ら、助けに来てくれるって思ってたのに
A……見てたよね?
止めてくれるんじゃなかったの?裏切り者!
Lなんでしょ?
違う
じゃあ、なんで……?
やめてくれ
僕、怖かったんだよ……裏切ったな僕を!
燃えてたんだよ……機内……痛いよぉ……
お前のせいだ
ねえ、見捨てたの?
僕を殺したな
僕らより、世界を選ぶの
死んじゃえばいいんだよ
僕ら、家族じゃなかったの?
なんで、酷い
一緒に育ったのに……お前なんか大嫌いだ!
ねえ、なんで僕らが死ななきゃいけなかったの?
裏切ったぁ〜
Aなら止められたよね?
死んじゃえ
止められたのに、やらなかったんでしょ?
なんでだよ……殺したんだ!
僕ら、最後まで信じてたよ
この人殺し!!
……返せ!何もかも!
どうして僕らを殺したの?
人殺し
人殺し
人殺し人殺し人殺し──
お前も死んじゃえ──
「……ッ……」
胸が、ひくりと痙攣する。
呼吸が乱れる。
瞼を閉じているのに──炎が見える。
泣き声が、混じる。
叫びが、混じる。
責める声が、重なっていく。
ちがう……ちがう……
僕じゃない……
「……やめろッ……」
(僕がやったんじゃない)
違う。
違う違う違う違う違う──
全部Lのせいだッ!
全部、全部ッ、全部ッ
あいつがッ、皆を殺したんだ!
僕は悪くない、何も悪くない
Lのせいだ、Lが悪い
Lなんて大嫌いだ!
ネオンが滲む。
涙か、薬のせいか──もう分からない。
それでも、Aは繰り返す。
自分を守るように。
誰かを攻撃して──責任逃れして──
自分を壊さないために。