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賢治が帰宅するとマンションのエントランスに嗅ぎ慣れた白檀の香りがした。それは微かなものだったが、一瞬、血の気が引く思いがした。
(まさか、倫子がここに来た・・・そんな筈は)
然し乍ら、如月倫子は異常ともいえる執着心を抱く。高等学校の卒業間近、賢治と、とある女子生徒が浮気をしているのではないかという噂がたった。それは根も葉もない噂だったのだが、嫉妬に狂った如月倫子は執拗にその女子生徒に嫌がらせを繰り返し、女子生徒は登校拒否、そして転校するに至った。
(ここに、来たのか!?)
このマンションの住所は同窓会名簿のデータに入力されている。幹事の如月倫子ならば、難なく閲覧する事が出来ただろう。エレベーターのボタンを押す指が震えた。箱の中の鏡に怯えた面持ちが映った。
(もし、菜月が倫子と会っていたら)
脳裏に、綾野住宅の社屋と四島工業の社長である父親の顔が浮かんだ。
(不倫がバレたら、俺の立場はどうなるんだ!?)
震える指でシリンダーキーを回したが、室内は暗かった。
「ただいま、菜月、いないのか?」
菜月の寝室に人の気配はなかった。安堵の溜め息が漏れると共に、腹立たしさを感じた。賢治は、菜月が綾野の家に出入りする事を良しとしなかった。
(くそ、また湊の所か!)
特に、菜月が湊と仲睦まじくする事を嫌がった。見合い当初、菜月には2歳年下の弟がいると紹介され、「俺に、弟が出来るのか」とこそばゆさを感じていた。ところが、いざ結婚という時期になって、菜月と湊に血の繋がりがない事を知った。賢治は、妬ましさと悍ましさを感じた。自分だけの菜月、そう思っていたが実際はそうではなかった。ふたりの互いを見る目が全てを物語っていた。
「くそっ!」
賢治は己の不貞を棚上げし、菜月が綾野の家から帰宅していなかった事に腹を立てた。冷蔵庫の中を見て見たが作り置きの夕飯はなく、ベランダには雨ざらしのバスタオルが暴風雨にはためいていた。
「なんなんだよ!」
賢治はソファにどっかりと腰を下ろした。時計の針が1分進む毎に苛立ちが募った。親指の爪をギリギリと噛む、そこで玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま」
菜月が恐る恐るリビングに声を掛けて来た。その背後に、革靴の音とエレベーターの扉が閉まる気配を感じた。
「おかえり」
賢治はソファで腕組みをし、菜月を睨みつけた。
「綾野の家に行っていたのか」
「ちょっと用事があって」
「俺のメシはどうした」
手に持っていた紙袋をダイニングテーブルに置いた菜月はタッパーウェアを賢治に見せた。
「南瓜と小豆の煮物、多摩さんが持たせてくれたの」
「煮物」
「美味しいのよ」
賢治はソファから立ち上がると菜月の手からタッパーウェアを取り上げ中身の匂いを嗅いだ。
「なんだよこれ、婆あの臭いがするじゃないか」
「なに、なにその言い方・・・」
「こんなもの食えねぇよ」
そう吐き捨てると同時に、賢治はタッパーウェアごとゴミ箱に捨て、菜月は驚きのあまりに言葉を失った。
「綾野の家の”みんなで仲良くしてます”ってのが気持ち悪いんだよ」
「気持ち悪いって、酷くない?」
「菜月、タクシーで帰って来たのか?」
菜月の表情が強張った。
「湊に送ってもらったの」
「お前ら仲良すぎるんだよ!その歳で気味が悪いんだよ!」
「そんな、だって弟なのよ?」
「義理の弟だろ!血が繋がってないんだろ!裏で何やってんのか分かったもんじゃねぇ!」
「賢治さん、あなた何を言ってるのか分かってるの!?」
賢治は自身の愚かさを、菜月と湊の姿に投影した。
「菜月!もう綾野の家には行くな!」
「どうして!?」
菜月は如月倫子の話題を出す事はなかった。如月倫子はこのマンションには来ていない。ならば隠し通そう、不倫の発覚を恐れた賢治は菜月の外出を禁じた。
「湊 とも会うな!この部屋にも入れるな!」
これは 湊 に対する嫉妬心だ。
「そんな事、出来ない!」
すると顔色を変えた賢治は手元にあったダスターを掴むと振りかぶって菜月に叩き付けた。
「キャッ!」
「もう寝る!約束は守れ!分かったな!」
賢治は激しい音を立て、寝室のドアを閉めた。リビングには、呆然と立ち竦む菜月の姿があった。