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湊は、賢治の不倫を証明する為に、ゆき に1枚のSDカードを託した。そのSDカードは ゆき の手から菜月に手渡され、菜月は賢治が運転するアルファードの車載カメラのSDカードを、数日置きにすり替えた。
「お母さん、これが今週の分」
菜月は、SDカードを数枚入れた封筒を ゆき に手渡した。
「ご苦労さま、菜月さん。でも本当に大丈夫?」
「うん、大丈夫」
賢治に外出禁止を言い渡され、マンションに軟禁状態だった菜月は、日に日に疲労の色が濃くなっていた。
「湊とお父さんには元気だって伝えて」
「ええ」
菜月は ゆき を凝視した。
「お父さんに、賢治さんの不倫の事は?」
「いいえ、まだ」
「まだ言わないで」
「ええ、分かったわ。でも菜月さん、無理しないでね」
「うん」
ゆき と菜月が話していると、玄関ドアが勢いよく開いた。賢治だった。まだ勤務中の筈だが、こうして度々、菜月の様子を伺いに来ていた。玄関先に ゆき の西陣草履を目にした賢治は「チッ」と舌打ちをした。
「菜月」
その行為は監視に近く、菜月は顔色を変えた。 ゆき は慌てて白い封筒をハンドバッグに仕舞い込んだ。
「お義母さん、来ていらしてたんですか」
「ええ、菜月さんの好きなケーキを差し入れに来たの」
「毎週、毎週、ありがとうございます」
賢治は嫌味ったらしく ゆき を見下ろした。 ゆき はその太々しい態度に、社長夫人らしく毅然と「勤務時間でしょう、お仕事に戻りなさい」と立ち上がった。緊張感が走った。
「お義母さん、家まで送りましょうか?」
「いえ、結構です。用事がありますから」
「そうですか」
ゆき は吐き気を催した。娘婿が不倫相手とお愉しみの時間を過ごした車になど乗りたくもなかった。
「分かりました、菜月」
「は、はい」
「今夜は会合だから夕食は要らない」
「はい」
「では、お義母さん、ごゆっくり」
玄関ドアが不満げな音で閉じた。ゆき は菜月の痩せ細った手を握って涙を流した。
「もう、郷士さんに打ち明けても良いんじゃない?」
「賢治さんの事が許せないの」
「弁護士さんに入ってもらって、慰謝料を頂けば」
「それだけじゃ許せないの」
「でも」
「湊 が助けてくれるから、大丈夫」
菜月はスカートをきつく握りしめた。
タクシーで綾野の家に乗り付けた ゆき は、ガレージに賢治のアルファードがない事を確認して、綾野住宅の社屋に小走りで駆け込んだ。湊 の姿を探すと、2階の会議室にいると、事務方の久保が指差した。
「湊・・・!」
「母さん、菜月の様子は!元気だった!?」
「え、ええ。元気よ」
ゆき の表情から察するに、状況は思わしくない。湊も焦りを感じ始めていた。
「はい、これが預かって来たSDカード」
「ありがとう」
「その・・・」
ゆき がその場に居合わせたいと言ったが、それは断った。どんな場面がこのSDカードに録画されているか分からない。到底、母親には見せられるものではないと判断した。
「なんで、こんな事に」
不倫の証拠として如月倫子の正体を突き止める、それで終わるはずだった。ところが思いがけない事実が判明した。賢治には如月倫子の他に愛人がいた。菜月を蔑ろにするにも程がある。
(賢治さん、あんた一体何やってんだ!)
そして、SDカードに録画された20代前半と思われる女性が着ていた服には見覚えがあった。
(四島工業の職員だ)
それは賢治の実家である四島工業株式会社の女性社員の制服だった。四島工業は、賢治の実家だ。賢治は四島工業で専務を務めていた。見栄えも良く、その地位とあれば、女性社員は放ってはおかないだろう。
(まさか、菜月と結婚する前から付き合っていたのか!?)
菜月が見合いするにあたって、賢治の身辺調査は行った。ところが、その網目を潜り抜けて、賢治はこの女性社員との関係を続けていた。
(菜月をなんだと思っているんだ!)
湊 は書類の束を掴むと、床へばら撒いた。
カコーーン
鹿威おどしが鳴り響く庭園、賢治は再び綾野の座敷に呼び出された。郷士と賢治が正座で向き合った。
「社長、なにかございましたでしょうか?」
「うむ、賢治くんに頼みがあってな」
「はい」
そこへ、腰を摩りながら家政婦の多摩さんが顔を出した。
「多摩さんが腰を痛めてね」
「はぁ」
「菜月に台所周りの仕事を手伝って貰いたいんだ」
賢治の眉間にシワが寄った。今、あのやつれた菜月の姿を見せる訳にはゆかなかった。明らかに狼狽する賢治の面持ちに、眉を顰めた郷士は畳み掛けるように言葉を掛けた。
「ゆき から聞いた」
「は、はい」
「菜月がご迷惑を掛けているそうだね」
「はぁ?」
「心療内科に通っているそうじゃないか」
「そんな事はありませんが」
「部屋で入眠導入剤を見掛けたと聞いたが?違うのかね?」
「見間違いじゃないでしょうか?」
座敷テーブルに薬袋が差し出された。確かに、そこには菜月の名前が記入されていた。
(い、いつの間に・・・!)
賢治は、外出をしないようにあれ程言い聞かせたのに、と畳に視線を落とした。ふと視線を感じると、そこには勝ち誇った面差しの ゆき が正座していた。
(糞ババアが!余計な事、しやがって!)
チャリン
金属音に振り向くと、そこには小憎たらしい 湊 がBMWの鍵を手に微笑んでいた。「賢治さん、これから僕が菜月を迎えに行くから安心して」
「や、それは、それは、そんな急がなくても!」
「なに、今日だと問題があるの?」
賢治は今朝も、菜月を怒鳴りつけ朝食の味噌汁腕をリビングに叩きつけていた。その際、腕を拾おうとした菜月の背中を蹴り倒した。賢治のドメスティックバイオレンスはより過激なものになっていた。
「賢治くん、迷惑を掛けて済まなかった」
「は、はい」
「これからは、こちらで療養させるので安心してくれ」
「はい」
「もし、家事で不都合があれば ゆき を向かわせるが」
「そんな!お義母さんにご迷惑をお掛けする事は!」
「そうか、なにかあればいつでも言ってくれ」
湊 は、父と賢治の遣り取りを聞き、胸を痛めた。父は、目の前の娘婿が不倫に走っているなど思いも寄らないだろう。心臓に疾患を抱えている父に、決してそんな事を知られる訳にはゆかなかった。