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やはり明明に、余分に服を持たせて正解だったな。
宴会場で仕事をしていた紅花は、俺が明明に渡した予備の服を着ていた。
こうなる事は何となく予見していた。
下仙達の、妖仙になろうとする紅花への風当たりは強い。
どんなに努力しようと、妖は妖。
人ではないくせに、人と同等の存在になるなどおこがましい。
それが一般的な下仙達の考え方だ。
仙の内、ほとんどを占めるのが下級仙人。彼らは自分たちがなぜ上級になれないのかを全く理解していない。下級仙人が下級である所以はそこにあると言うのに。
西王母の屋敷を訪れた時に紅花とは会っていた。蟠桃会の準備に紅花も参加するとなれば、必ず嫌がらせを受ける。特に女の多い西王母の屋敷なら尚更。
だから明明を貸し出すことを了承したのだ。
明明なら人か妖か、などという瑣末な事で紅花を見たりはしない。紅花も恐らく明明に対して「嫌な奴ではない」と判断したからこそ、西王母に明明の事を話したのだろう。
そもそも西王母が紅花に50年の試用期間を設けたのは、紅花を疑っているからではない。
むしろ下仙達の反発や不満を和らげる為だ。
人と同じ条件を満たしているからと言って妖を仙籍に入れれば、必ず難癖をつける輩が生まれる。地位と権力にものを言わせて押さえ付けるよりは、一定の条件を出して紅花にクリアさせた方が角が立たないと判断してのことだ。
善が基本の世界。
だがそれは理想であって現実ではない。
仙だって元々はただの人。
善・悪、好・嫌、愛・憎、真・偽、正・負……
精気に陰と陽があるように、相反するふたつの感情を体に収め生きている。負の感情を制御し、いかに少なく出来るかが、上級と下級の最大の違いと言っても過言ではなかろう。
成長の過渡期である明明の場合は、ただ精気を操る技量に欠けているだけ。そんなのはこれから修行を重ねれば何とかなる問題だ。
その明明はと言うと、きっと茶でも淹れに来るだろうと思っていたが疲れきって部屋で休んでいるのか、ここへは来ていない。
一言声を掛ければ直ぐにやってくるのだろうが、流石にそれははばかられた。ずっと働き詰めの人間をこき使う程鬼じゃない。
寝台にゴロンと横になって窓から見える外の景色を眺めていると、チリン、と鈴の音が鳴った。
この部屋にももちろん、西王母の許しを得て侵入者を報せる術を張っておいている。鈴の音が鳴ったと言うことは
――明明では無い誰か。
「誰だ」
体を起こして扉の向こう側に問いかける。
返答は直ぐにあった。
「私よ、可馨。入っても良いかしら」
扉を開けると可馨が立っている。柔和な笑みを浮かべた彼女を中に入れると、いきなり抱きついてきた。
「ああ、颯懔。会いたかったわ」
どの口が言うのか。
一度は恋心を抱いた相手を突き飛ばす訳にもいかずやんわりと引き剥がすと、可馨は眉尻下げて瞳を潤ませた。
「やっぱりまだ怒っているのね」
「自覚があったのか」
「ごめんなさい。あの時の事なら謝るわ。私、本当は何も知らなかったの。恥ずかしさのあまり颯懔に酷いことを言って傷付けてしまって……反省しているわ。許して」
「謝る事が出来るようになったのだな」
ふっ、と皮肉に笑うと可馨は更に困ったような顔をした。
嫌味のひとつも言いたくなる。
出会った頃の可馨は俗世を捨てて弟子入りしたにも関わらず、高飛車で気位の高い女だった。
桃源郷での暮らしになかなか慣れない可馨に、手本となる友人を作ってあげたい。
老君はそう言っていた。
修行に付き合い共に過ごす時間が多くなる内に、勝ち気でお高くとまっている可馨が時折見せる弱さに愛おしさを覚え、自然と好きになっていた。
まだまだ若かった俺は時を経て修行を重ねれば、可馨も丸く柔らかな心になるだろうと信じていた。
「私だって400年と生きているのよ。処世術くらいは学んでいるわ」
やはり。
可馨は変わっていない。
トゲトゲしさに紗を掛けて誤魔化しているだけ。まだ天仙の位、それも一番下のギリギリのラインにいる事がその事実を如実に物語っている。
「……何度も貴方を忘れようとしたの。だって傷付けてしまった貴方にやり直そうなんて言えないもの。伴侶を見つけて結婚して……でも、すぐに上手くいかなくなっちゃうの。どうしても貴方のことを思い出してしまうのよ」
「ねぇ……」と綺麗に爪の手入れをされた手が、頬に触れる。
「颯懔も私と同じ気持ちではないの? ずっと独り身で女を避け続けているのは、私を忘れられないから。そうじゃない?」
「…………そうだ」
涙ぐんでいた顔にパッと笑みがこぼれた。その瞳の奥に、獲物を追い詰めた時に見せる恍惚感にも似た色が見えた気がする。
前より酷くなっているな。
多少の棘があっても、素直に生きていた頃の方が余程魅力的だった。
猫かぶりと言う名の処世術を覚えた彼女は、それが自分自身を醜くしている事にはきっと、気が付いていない。
「それならもう一度、私たちやり直しましょう。まだまだ精気の量は神遷の域には及ばないけれど、貴方が夫になってくれるなら私、これまで以上に修行に励むわ。私が貴方を真人にしてあげる」
「それはどうだか」
「嘘じゃないわ。辛い修業にも耐えてみせる。颯懔が応援してくれるならね」
可馨の服からはふわりと香の匂いが漂ってくる。
傷跡一つない肌は絹のように滑らかで香油の塗られた長い髪は艶があり、ヤスリをかけられた長い爪には爪紅が。
女としての魅力を完璧に備えていると言っても、誰も異論を唱えないだろう。
でも、明明の美しさには到底及ばない。
それなりに着るものや身だしなみに気を使う彼女は恐らく、お洒落をするのが嫌いではない。
いつでも誰かのために自然と体が動くせいでボロボロになってしまう明明から滲み出る美しさは、張りぼての美しさとは比べるまでもない。
「応援、か。悪いが応援したところで期待に添えそうも無い」
事実を話したら可馨はどんな反応をするだろう。
用無しとみるか、それとも……
「あの日以来、勃たなくなった。要は不能ってやつだ」
可馨の瞳が一瞬揺らいだ。
蝋燭のチラチラとした灯りのせいではない。ゆっくりと瞬きをして一呼吸置いたあと可馨は、もう一度笑みを見せた。
「私のせいでこんなにも貴方を苦しめ続けてしまったのね。大丈夫、あの頃とは違うわ。私に身を委ねて。ね?」
伸びてきた白い手が、重ね衿の隙間に差し込まれる。首の後ろに回された手を支えにして可馨が背伸びをし、紅色の唇が自分の唇へと引き寄せられた。
触れ合うまであと一寸。
俺が触れたいのは、この人ではない。
「可馨。俺たちはもう終わったんだ」
「怒るのも当然よね……。どうしたら怒りを収めてくれる? 」
「怒ってもいないし、ましてや恨んでもいない。ただ恋心が潰えてしまっただけの話しだ。俺の心に可馨はもういない」
「これからもう一度、私でいっぱいにするわ」
「違う。お主の入る余地などないと言っている」
別の人で満たされているから。
「まさかそれって他に思う人が……」
「もう遅い。部屋へ戻って休んだ方が良い」
半ば強制的に部屋から追い出すように、背中を押して扉の方へと誘導した。可馨の声が閉めた扉の向こうから聞こえてきた。
「私、諦めないから。絶対に」
可馨はただ、獲物を仕留められなかったことに悔しさを覚えているだけ。
他の蛇と変わらなくなってしまった。
「……会いたいな」
これ程に人恋しくなるのは酒が入っているせいなのか。
夜が明けたら会いに行こう。