──草原が、焼けていた。
灰と血に濡れた夜明け前。
星明かりすら拒む暗黒の空の下
ひとりの青年が
地を這うように逃げていた。
「⋯⋯はっ!⋯⋯は、⋯⋯く、ぅっ!」
ひゅう、と乾いた風が吹き抜ける。
靴底は泥に沈み、足元の草が焼け焦げ
煙が涙腺を刺激する。
それでもライエルは
ただ前だけを見ていた。
全身の皮膚が焼け付き
関節が悲鳴を上げていた。
それでも、走る。
転ぶ。
起き上がる。
走る。
止まれば〝死〟だった。
──いいや
〝喰われる〟という表現の方が正しかった。
「──ひ⋯⋯っ!」
頭上を滑る影。
あまりに鋭利で巨大な鉤爪が
夜の帳を裂いて舞い降りる。
そのひと振りがこめかみを掠め
暖かい血が頬を伝った。
(私など⋯⋯ひと振りで充分のはずだ!)
けれど──
それは故意に外されていた。
逃げる背に死を与えることなく
恐怖を撒き散らすだけの〝狩り〟
(わざとだ⋯⋯掠らせているんだ⋯⋯
いたぶるように⋯⋯っ!)
背後で羽ばたく音が鼓膜を打つ。
次の一撃は髪を攫った。
あの黒髪──
腰まで届く柔らかな糸のようなそれが
猛禽の嘴に捕えられる。
「⋯⋯くっ!」
ぐん、と凄まじい力で引き上げられた瞬間
ライエルは迷いなくナイフを抜いた。
刃が髪を裂き
頬を傷付け
次の瞬間には地面に
投げ捨てられるように叩きつけられた。
肉が裂けた。
歯が折れ
肋骨にひびが入った音が聞こえた。
それでも、彼は動いた。
這い、転がり、また立ち上がる。
──だが。
「⋯⋯あぁ、ぐぅっ!!!」
それはあまりにも一瞬だった。
鉤爪が背中を穿ち、地面に縫い付けられる。
「がはっ⋯⋯!」
肺が潰れ
声にならない悲鳴が口から漏れる。
獣のように吠えることすら許されず
ただ苦痛に喉を震わせた。
──次の瞬間、焼けた。
抉った爪が、火を灯した。
紅蓮の炎が、裂かれた傷口にまで滲み入り
骨の奥まで焼いていく。
皮膚が爛れ、肉が膨張し
焼け焦げた神経が弾ける。
「ああああああああぁぁぁっっっ!!!!」
空へと届くような断末魔。
だが、不死鳥はそれすら愉悦と受け止め
炎の中で翼を羽ばたかせる。
そして──現れた。
その場の全ての色を奪うように
静かに、冷たく、女が立っていた。
アリアだった。
(なんて⋯⋯お姿だ⋯⋯)
月の光を思わせる
絹のような金髪は返り血で硬く束になり
その端正な顔は
燃え落ちた血と肉片で赤黒く染まっていた。
──それでも、美しかった。
まるで、血の神が舞い降りたかのように。
(不死鳥が⋯⋯人間を唆したんだ!!
アリア様に、それをお伝えするまで⋯⋯
私は、死ねない!!)
不死鳥は
地面に縫い付けたライエルを睥睨していた。
「っ⋯⋯アリア様っ、なぜ⋯⋯なぜっ!」
その嘴は嘲笑うように開き
さらに力を込めて、ライエルの背を抉った
口から血が噴き出す。
声は、もはや呻きとも叫びともつかない。
(何故⋯⋯共に闘おうとは⋯⋯
仰ってくれないのですか⋯⋯⋯!
敵は、魔女でも、人間でもない。
貴女様を蝕む⋯⋯不死鳥なのにっっっ!!)
手を伸ばした。
炎に灼かれ、焦げた指先を
それでも彼女に向けて。
アリアの腕が
ゆっくりと伸ばされる。
だが──
それは、赦しではなかった。
それは、祈りでもなかった。
それはまるで
彼の手に触れるようでありながら──
断罪のようだった。
「⋯⋯無駄に、苦しませるな。不死鳥」
アリアの腕が、緩やかに
炎を纏って振り下ろされる。
次の瞬間
ライエルの身体は花の花弁のように
熱の渦に呑まれて崩れ落ちた。
風が吹いた。
焼け焦げた髪が、朽ちた灰と共に舞う。
──そして
不死鳥は、満足げにその場を飛び去った。
アリアの瞳に宿るのは
ただ、冷たい沈黙だけだった。
そこには、涙も、怒りも、悲しみも
何ひとつ存在しないかなように──
〝神に仕える記憶の徒〟は、燃え尽きた。
終焉の舞台には
もう誰も立っていなかった。
そこにはただ
神でも女王でもない
一人の女が残されていた。
──名を、アリアと呼ばれた、哀れな器が。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!