テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
蝉の声が、地面を焦がすように響いている。
午後の街角、コンクリートに座り込むようにして、誰かがうずくまっていた。
それが結月だと気づいたのは、通りすがりの悠真だった。
「……結月?」
すぐに異変に気づいた。
普段なら軽口ばかり叩いて、手を振ってくるはずのその顔が、今日は見えない。
しゃがみ込むようにして、両腕で腹を押さえ、額から汗を流している。呼吸は浅く、顔は真っ赤だった。
「どうした、熱あるのか? 結月!」
声をかけながら近づこうとすると、かすかに手を伸ばされる。
「……待って、来ないで……触られると……」
「……?」
言葉の意味が飲み込めず、迷った末に、そっと肩に手を添えた。
その瞬間、結月の体がビクッと跳ねる。
「っ、ぅ……ん……」
ごく短い声。
耐えるような息。
それだけなのに、悠真の胸がぎゅっと締め付けられる。
「……ほんとに、苦しそうじゃん。もう、いいから……ごめん、少しだけ我慢して」
迷いを振り切るように、悠真は結月の体を支えた。
いつもより軽く感じる。脱力したその体を、そっと背中に回した腕で支えると、また微かに震えが返ってきた。
「大丈夫。何もしないし、からかわない。俺んち、すぐそこだから」
結月は、言葉もなく、うなずいた。
部屋の静けさの中で、冷房の音が遠くに聞こえる。
結月は薄いタオルケットにくるまりながら、ベッドの端に座っていた。
隣には悠真。少しだけ距離を取って、気を遣うようにじっと待っている。
やがて、結月はぽつりと口を開いた。
「……俺、自分の身体、前からずっと変だって思ってた」
声は小さく、まるで独り言のようだった。
けれど、悠真は一言も遮らず、その声を逃すまいと耳を傾けた。
「……誰かに触れられると……たとえば、ちょっと肩に触れられただけで、ぞわって全身が反応するんだ。
手首とか、背中とか、首筋とか……どこでも。普通のスキンシップでも、急にビクッてして、息が止まるみたいになる」
結月はゆっくりと、自分の両手を見つめる。
「しかも……ただ驚くだけじゃなくて、時々、すごく“感じる”みたいな反応になっちゃうんだ。
肌が勝手に熱くなって、鳥肌立って、……ひどいときは、声まで漏れそうになる」
そこで言葉が途切れた。
顔がどんどん赤くなっていくのがわかる。
「……それがすっごく恥ずかしくて。
男子なのにって思ったし、気持ち悪いって言われたこともある。
“触ってないのに大げさ”とか、“男のくせに”とか、言われたこと、何回もある」
タオルケットの端を、結月はぎゅっと握りしめた。
「だから、自分が怖かった。
誰かと近づくのも、好きになるのも、手をつなぐのさえも。
この身体が、また勝手に反応しちゃったらどうしようって……
“普通じゃない”って思われるのが、怖かった」
そこで初めて、結月の目が悠真に向けられた。
涙を堪えたまなざしで、じっと、まっすぐに。
「でも……悠真には、知っててほしかった。
全部話して、それでもそばにいてくれるなら、俺、少しずつ変われる気がするから……」
悠真はその言葉に、ゆっくりと息を吸った。
「結月……ありがとう。そんなふうに、俺を信じてくれて」
そして、ごく近い距離まで腰を寄せた。
けれど、触れない。ただ、言葉だけで包むように話す。
「結月の身体が“敏感すぎる”って、たしかにそうかもしれない。
でも、それって“壊れてる”とか“間違ってる”って意味じゃないと思う。
ちょっと違うだけ。誰よりも感じやすくて、繊細で、すぐに反応しちゃう――
それって、弱さじゃなくて、むしろ……ちゃんと心と身体がつながってる証拠じゃないか?」
結月は、少しだけ目を伏せた。
「……そんなふうに考えたこと、なかった」
「たぶんね、苦しいのは、“その反応が悪いこと”って言われ続けたから。
でも、ここでは違う。俺は結月のこと、変だなんて思わないし、からかったりもしない。
むしろ……そういう繊細さも含めて、大切にしたいって思ってる」
「……ほんとに?」
「ほんとだよ。証明したいなら……ほら、手を貸して」
そう言って、悠真はそっと掌を差し出した。
結月は迷いながらも、自分の手をのせた。
その瞬間――
「……ふっ……」
肩がわずかに震え、指先が跳ねるように反応した。
「……やっぱ、ダメかも……」
結月がそう言いかけたとき、悠真はやさしくその手を包んだまま言った。
「大丈夫。これが“結月の反応”なんだよな?
だったら、これも大事にしていこう。慣れる必要はあっても、否定する必要なんか、どこにもない」
その言葉に、結月の中で、何かがじわっとほどけていくようだった。
「……俺、ずっと……自分の体が怖かった。
けど、今は……少しだけ、“向き合ってもいいかな”って思える」
「うん、それでいい。無理しないで、ひとつずつ。
“触れる”ことも、“話す”ことも、全部ふたりでやっていこう」
結月はそっと笑った。
それは、とても小さくて――けれど、これまででいちばん、強い笑顔だった。
その夜、結月はひとりでベッドにいた。
冷房はつけていたけれど、胸の奥のざわざわは消えなかった。
ふと、過去の記憶がよみがえる。
無理に笑っていた日。
気持ち悪いって言われた日。
誰にも言えずに、一人きりで震えていた夜。
それらが、急に波のように押し寄せてきて――
次の瞬間、全身がぴりっと過敏に反応し始めた。
「……やば……また、来る……」
手足が震え、指先が冷たくなる。
喉の奥が詰まり、呼吸が浅くなっていく。
肌の内側がむず痒くなって、触れられてもいないのに、感覚が暴走する。
止めようとしても、止まらない。
頭では「大丈夫」って言い聞かせてるのに、身体が言うことを聞かない。
「……っ、だめ、また……いやだ……っ」
シーツを強く握ってうずくまる。
涙がこぼれそうになっても、声すら出せなかった。
でも、次の瞬間――
「結月!」
部屋のドアが勢いよく開いて、悠真が飛び込んできた。
「どうした、また反応が……?」
結月は、かすれた声で言った。
「……俺、苦しい……お願い、助けて……」
その声は、泣きながら叫ぶような声じゃなかった。
けれど、それ以上に切実で、深いところからのSOSだった。
悠真は迷わず、結月の隣に腰を下ろす。
すぐには触れない。ただ、優しく問いかける。
「……どうしてほしい? 言ってくれれば、何でもする。何も言わなくても、そばにいる」
その言葉に、結月は涙を浮かべたまま、そっと小さく首を振った。
「……そばにいるだけじゃ、もう、足りないかもしれない……
だから……少しだけ、俺に“ふれて”……」
震えながら、そう言った結月の声は、まるで許しを乞うようだった。
「ちゃんとわかってる。怖いんじゃない。……でも、今だけは、誰かの“温度”で止めてほしいの。
俺ひとりじゃ、どうしても抑えきれないから……」
その想いを受けて、悠真はそっと手を伸ばす。
触れたのは、結月の背中。
薄いTシャツ越しに、やさしく、一定のリズムで撫でていく。
「……ゆっくり吸って、吐いて。俺と一緒に」
結月の肩は震えていたけど、次第にその震えが小さくなっていく。
「……あったかい……」
ようやく、少しずつ声が出せるようになった結月は、悠真の手のひらに自分の手を重ねた。
「ここ……ここに触れてて。もう少しだけ……」
「うん、ずっとここにいる。お前が落ち着くまで、何時間でもこうしてるよ」
その言葉に、結月の目からぽろりと涙がこぼれた。
熱ではなく、不安でもない、
初めて「安心」が流した涙だった。
そして――結月は、悠真の胸にそっと額を預けた。
まるで嵐のあと、穏やかな海に抱かれるように。
心と身体が、少しずつ静かに沈んでいく。
「……ごめん。俺、また迷惑かけた」
「違うよ。これは“ふたりで乗り越えること”だって言っただろ?」
やさしい声が、耳元に落ちる。
「一人じゃ抱えなくていい。俺がいる。
どんなふうに揺れても、ちゃんと支えるから」
結月は、震える手で悠真の服の裾をつかんだ。
「……ありがとう。ほんとに、ありがとう」
この夜、ふたりは言葉よりも深い部分で、
もう一度「つながる」ことができた。
身体のこと、心のこと。
どちらかだけじゃない、“全部”を受け止めてもらえること。
それがどれほど救いになるかを、結月は知った。
ふたりの関係は、少しずつだけど確かに前に進んでる。
次は、もっと穏やかな朝を迎えられる――
そんな予感とともに、夜は静かに更けていった。
続き→
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!