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それからも、結月と悠真は毎日を穏やかに過ごしていた。
ふたりで手をつなぎながら散歩したり、映画を観て笑ったり。
ときどき、また敏感な反応が出てしまうことはあったけれど、悠真は焦らず、結月も少しずつ受け入れられるようになっていた。
けれど――
そんな日常が当たり前になってきたある日のことだった。
きっかけは、本当に些細なことだった。
放課後、教室で。
「ねえ悠真、今日さ、帰りちょっと寄りたいとこあるんだけど……」
そう言いかけた結月の言葉に、悠真はスマホを見たまま、軽くうなずいた。
「あー、ごめん、今日は無理。姉ちゃんが来てて、ちょっと早く帰らないと」
「……そっか」
その瞬間、ほんの一瞬だけど――
結月の表情が、寂しげに曇った。
悠真は気づかなかった。
けれど、結月の心の中では、ひとつの小さな不安が芽を出していた。
“最近、俺のこと……ちょっと雑に扱われてない?”
“俺ばっかり、気を遣ってるのかな……”
それが積もっていくのに、時間はかからなかった。
***
そして数日後――
放課後の帰り道。
久しぶりにふたりで歩いていたのに、会話はぎこちなかった。
そんな空気を打ち破るように、結月が言った。
「……最近、俺たち、前みたいじゃないよね」
「は? なにが?」
悠真の反応は、少し強かった。
その一言で、結月の胸の奥に押し込めていたものが、ふっとこぼれた。
「……なんかさ、悠真って時々すごく冷たい。
“ふたりで乗り越えよう”って言ったくせに、俺が不安になっても気づかないし、ちょっとでも感情出すと、めんどくさそうな顔するし……」
「いや、ちょっと待てよ。俺なりに気を遣ってたし、お前だって……」
「俺だって、なに?」
言いかけて、悠真は黙った。
結月は、目を伏せたまま続けた。
「……俺、また“面倒なやつ”になってるよね。
誰にも触れられない、自分の体も持て余してる、感情だけ重い……
悠真だって、本当はもう、うんざりしてるんでしょ?」
「違うって言ってんだろ!」
悠真の声が、思わず少し大きくなった。
ふたりの間に、一瞬、重たい沈黙が流れる。
結月は、唇をかみしめてから、静かに言った。
「……もういいよ。ちょっとだけ、ひとりになりたい」
「結月……」
そのまま、結月は足早に歩き出した。
悠真は追いかけることも、何もできなかった。
遠ざかっていく背中を、ただ見送るしかなかった。
***
それから数日間。
ふたりはほとんど話さなくなった。
学校でも、目が合っても逸らすようになり、会話は必要最低限だけ。
周囲は気づかないふりをしていたけれど、ふたりの間にあった“安心の空気”は、完全に消えてしまっていた。
結月は、一人の夜、何度も考えていた。
――どうしてこんなことになったんだろう。
――“甘え”って、どこまで許されるんだろう。
――俺は、もう一度誰かに迷惑をかけてるだけなんじゃないか。
そして悠真も、悶々としていた。
――俺はちゃんと寄り添えてたのか?
――結月の“変化”を受け入れるだけで、俺は安心してしまってたんじゃないか?
――「好き」って言葉を使わなくても、気持ちは伝わるって思ってたのは、甘えだったかもしれない。
けれど、どちらも、言葉にするタイミングを失っていた。
“謝るべきなのか”
“それとも、このまま自然に終わるのを待つべきか”
胸の中にある想いは、声にならないまま、夜を繰り返していた。
放課後の教室。
夕方の光が教室を斜めに染める時間。
結月はひとりで教科書をまとめていた。
そのとき、背後からそっと誰かの影が差した。
「……結月くん、まだいたんだ」
声をかけてきたのは、同じクラスの男子・早川。
どこか笑顔がぎこちなく、視線が落ち着かない。
「えっと……俺さ、結月のこと……前から気になってたんだ。
で、こないださ……悠真と話してたの、ちょっとだけ聞いちゃって……」
「……え?」
結月の動きが止まる。
「その、なんていうか……触られると、感じやすいって話。
……変な意味じゃないよ? でも、逆に……すごく可愛いなって思って……」
言葉とは裏腹に、その視線は結月の体を舐めるように動いていた。
「俺、そういうの気にしないし……むしろ、すごく……興奮するっていうか」
「やめて……」
結月は後ずさった。
だけど早川は、それを止めなかった。
「ごめん、ほんの少しだけでいいから、どんな感じなのか……さわっ……」
不意に、腕を掴まれる。
「やめて!! 触らないでっ!」
反射的に大声をあげた。
だけど早川の指先は、腕から肩、そして首元へと滑っていこうとする。
「だめ……っ!」
その瞬間、反応が始まる。
皮膚がぞわぞわと泡立つような感覚に襲われ、膝ががくりと落ちた。
全身が震え、体が言うことをきかなくなる。
「……っ、やだ、やだ……やめてっ……!」
視界がにじんで、涙がこぼれ始める。
「な、なあ……本当にそんなに……? 俺、悪いことしたわけじゃ……」
早川はうろたえながらも、その手を引こうとしない。
「……だれか……だれか助けて……っ」
そのとき――
「てめぇ……何してんだよ」
低く鋭い声が教室を貫いた。
ドアが乱暴に開かれ、悠真が教室に飛び込んでくる。
「結月!!」
悠真は一気に早川の腕をつかんで引き剥がし、間に立ちはだかった。
「お前……何してるかわかってんのか。
“好意”とか言って、自分の欲押し付けて、勝手に触れて……それがどれだけ最低なことか、わかんねぇのかよ」
「……ちょ、俺、ただ……っ」
「“ただ”なんかじゃねぇ!!
嫌がってるのに手を伸ばした時点で、もう終わってんだよ」
早川は顔を引きつらせながら、教室を逃げるように飛び出していった。
静まり返る教室に、ふたりだけが残された。
結月はその場に崩れ落ち、肩を震わせて泣いていた。
「……ごめ、ん……悠真……俺、怖かった……」
「……大丈夫。もう大丈夫だよ」
悠真はそっと膝をつき、結月の肩を包み込む。
「触っていい?」
その言葉に、結月は小さくうなずく。
悠真の手が、そっと背中に回される。
そのぬくもりに触れた瞬間、張り詰めていたものがほどけるように、結月の体から力が抜けていった。
「怖かったのに……声も出せなくて……
またあんなふうになったらどうしようって……俺、全部ひとりで背負ってたのかなって……」
「ひとりじゃない。俺はずっと、ここにいるから」
結月は、悠真の胸元に顔を埋め、何度も何度も小さく泣いた。
その涙には、怖さも悔しさも混ざっていたけれど――
それ以上に、もう一度“信じてもいい”と思えた安堵があった。
悠真の胸元に顔を埋めながら、結月はしばらくの間、言葉を失っていた。
けれど、悠真の手はずっと同じように背中をなぞり、優しくそこに「いる」と伝え続けていた。
結月は、自分が震えていることにようやく気づいた。
「……ごめん、俺……また反応して……迷惑かけてばっかで……」
「迷惑なんか、ひとつもないよ」
即答だった。ためらいも、遠慮もない。
「お前がどんな風に感じるかなんて、お前のせいじゃない。怖かったのも、嫌だったのも、ちゃんとわかってるから」
そう言って、悠真は結月の涙を指先でそっと拭った。
「……俺、自分のこと、わかってるつもりだった。でも、全然だった……。
本当は、怖くて、情けなくて……自分の身体のせいで、また傷つけられるかもって思ったら……なんにも言えなくなって……」
声が途切れそうになる。
でも、今度は悠真が小さく笑って言った。
「それでも、ちゃんと“助けて”って言っただろ? それだけで、すごいよ。お前、ちゃんと立ち向かったじゃん」
「……っ」
言葉にならなかった。けれど、胸の奥がすこしずつほどけていくのを感じた。
悠真は立ち上がって、そっと手を差し伸べた。
「今日はもう、無理すんな。俺の家、行こう。帰るまでずっとそばにいるから」
結月は、ためらいがちに手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、また少しだけビクリと反応してしまったけれど――逃げなかった。
握り返した手は、きちんと温かかった。
***
夜、悠真の部屋。
灯りを落とした中、ベッドに並んで座ったふたり。
結月は、小さな声で話し始めた。
「俺……たぶん、まだ完全には立ち直れてないと思う。
さっきのこと、思い出すと、また体が勝手に反応して……」
「うん、それでいいよ。急がなくていいし、全部抱えなくていい」
「……悠真」
「これからも、嫌なことがあるかもしれないし、また怖くなるかもしれない。
でも、そのたびに俺がここにいれば、ちゃんと戻ってこれるって思ってくれたら、俺はそれでいい」
優しい声が、静かな部屋に染み込んでいく。
「じゃあ……少しずつでいいから、また“練習”していこう。
今度は、触れ方だけじゃなくて――気持ちの伝え方も、ちゃんと」
結月は、そっと笑った。
「……うん。俺、変わりたい。
悠真となら……少しずつでも、前に進める気がする」
そして、ふたりはそっと手を繋いだ。
もう、逃げるような握り方ではなかった。
確かに、お互いを受け止めるための、あたたかい「つながり」だった。
ゆっくりと息を合わせるように、ふたりは静かに寄り添った。
その夜、結月は初めて――怖さよりも、安堵の中で目を閉じた。
そして、心のどこかで誓っていた。
もう、自分を責めるのはやめよう。
誰かに守られることを、ちゃんと信じてみよう。
この手を離さずに、生きていこう。
そう、静かに――でも、確かに。
蝉の声が遠ざかり、街は秋の匂いを帯び始めていた。
どこかひんやりとした空気が肌に触れ、制服の袖も長くなったこの頃。
結月は、ふと自分の足元を見下ろす。
あの夏の日、熱に浮かされて座り込んでいたコンクリートの道。
今はもう、あの頃ほど怖くない。
ふいに誰かに触れられることも、突然胸が苦しくなることもあるけれど――
でも、今はもう、逃げるように目を伏せることはなくなった。
それは、隣にいる人が、いつも同じように手を差し伸べてくれるから。
「……寒くなってきたな。そろそろマフラーの季節か?」
「……うん。でも、こうして手つないでると、ちょっとあったかい」
隣にいた悠真が、ほんの少しだけ指を強く絡める。
「手、冷たい?」
「ううん。……ちょうどいい」
ふたりは並んで歩く。
教室でも、廊下でも、そしてこんな風に帰り道でも。
もう特別なことじゃない。
何度も繰り返して、少しずつ“ふつう”になっていった時間。
それは、ただの“慣れ”じゃなくて、ふたりで選び取ってきた“歩み”だった。
「そういやさ、最近……結月、全然びくってならなくなったよな」
「……うん。多分、もう……“触られる”んじゃなくて、“触れ合ってる”って感じになってきたから、かな」
「へぇ。成長じゃん」
「でも、油断するとまたドキッとするけどね」
「そんときゃまた、ゆっくり練習しようぜ」
悠真の言葉に、結月は笑って頷いた。
怖くないわけじゃない。
傷が完全に消えたわけでもない。
でも、それでいい。
不完全なままでも、隣に“信じられる誰か”がいてくれるだけで、世界はずっと優しくなる。
***
冬のはじまり。
教室の窓際、弱い光が入り込む午後。
結月はノートの端に小さな文字で書いた。
「今日も、大丈夫だった」
「少しだけ、前に進めた気がする」
「ありがとう、悠真」
「おーい、そろそろ帰ろうぜ。寒くなってきたし」
「うん、いま行く」
ノートを閉じて、カバンを背負いながら窓の外を見上げた。
空は少しだけ霞んでいて、それでも確かに晴れていた。
大丈夫。
怖がりなままでも。
揺れながらでも。
心は、ちゃんと前を向いている。
そして、手の中には、離さないと決めた温もりがあった。
「――ただいま、今日もちゃんと、生きられたよ」
小さなつぶやきが、やさしく冬風に溶けていった。
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