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しばらくすると、外から、6時を知らせる音楽が聞こえてきた。
「お母さん、遅いね」
わたしが畳の間に顔を出すと、鳴海ちゃんは「優お姉さん、ちょっと来て」と声をかけてきた。
「この問題、わかる?」
「うーん、5年の算数、難しいからな。できるかな」
割合を求める文章題をふたりで考えているとき、からからと引き戸が開く音がした。
「あ、お母さん、来たみたいだよ」
「じゃあ、片づける」
鳴海ちゃんがノートや筆箱をランドセルにしまいはじめたとき、居間と店の間にかかっている暖簾がめくられた。
顔をのぞかせたのは、鳴海ちゃんのお母さんではなく、玲伊さんだった。
「読み聞かせ、もう終わっちゃった?」
「えっ? あれ、玲伊さん。なんで?」
「モデルの件、藍子さんに話に来たんだよ。優ちゃんの読み聞かせも、と思ったんだけど」
急に顔を出されると、心の準備が出来ていなくて、ついドキッとしてしまう。
そんなわたしを見て、鳴海ちゃんは不思議そうに言った。
「わ、優お姉さん、どうしたの? 顔真っ赤だよ」
「えっ?」と言って、両手を頬に当てたとき。
「遅くなってごめんなさい」と、今度こそ鳴海ちゃんのお母さんがやってきた。
「お母さん、遅いよー」
鳴海ちゃんは居間から店に降り、お母さんのそばに駆け寄っていった。
ごめんね。お仕事が長引いちゃってと言いながら、遅れてそばに行ったわたしに、レジ袋に入ったメロンを渡してくれた。
「優紀さん。これ、おばあちゃんと食べて」
「わ、すごい、美味しそう。どうしたんですか?」
「親戚から送ってきたのよ。うちじゃ食べきれないから」
「ありがとうございます」
わたしが頭を下げると、彼女はううんと首を振る。
「こちらこそ。本当に助かっているのよ。水曜日は無理やり仕事を切り上げなくていいから。じゃ、鳴海、帰ろうか」
「うん。優お姉さん、バイバイ」
「バイバイ」
わたしと同時に玲伊さんも挨拶をした。
聞きなれない男の人の声に、鳴海ちゃんのお母さんはつられて彼のほうに目を向けた。
そして、「えっ、嘘」と言いながら、口に手を当てた。
「あれ、香坂玲伊……さんよね? やだ。わたし、大ファンなんですよ。去年テレビでお店の紹介されていたときからの」
鳴海ちゃんはお母さんを見上げた。
「お母さん、このお兄さんのこと、知ってるんだ」
「知ってるも何も。この方、とっても有名なのよ」
「いや、そんなことはないですよ」と謙遜する玲伊さんの言葉を制して、鳴海ちゃんのお母さんは力説した。
「いいえ! ママ友とよく話してるんですよ。一度でいいから〈リインカネーション〉で香坂玲伊さんに施術してもらいたいよねーって」
「いや、光栄です。そんなふうに言っていただけて」
玲伊さんが微笑んで軽く会釈をすると、鳴海ちゃんのお母さんの顔も一瞬で真っ赤に染まった。
わたしにもよくわかる。その気持ち。
玲伊さんの笑顔の破壊力は、ほんとに計り知れない。
その後も「お写真いいですか」とか「もう、早くみんなに自慢したい」とか言って、なかなか帰ろうとしない母親に焦れて、鳴海ちゃんは口を尖らせた。
「お母さん、もう帰ろうよ。お腹空いた」
「あ、そうね。じゃあ、優紀さん。またお願いしますね」
「ぜひ、うちの店にもいらしてください」と玲伊さんに言われ、まだまだ名残惜しそうな顔をしているお母さんの手を引いて、鳴海ちゃんは帰っていった。
「よく懐いているんだな、あの子」
「2年生のときから、来てくれているから」
「なんか昔の優ちゃんを思い出したよ。それにしても残念だったな。優ちゃんの読み聞かせが聞けなくて」
わたしが出した麦茶を飲みながら、玲伊さんは言った。
「なあ、今から俺に読んでくれない? 優ちゃんの声、優しくて好きだから」
落ち着け、自分。
また、いつもの冗談。
真に受けたらだめだから。
「いえ、恥ずかしいから嫌です」
「そう言わずに。ほら」
そう言って、机の上に置いてあった絵本を手渡そうとする。
しかもそれ『しろいうさぎとくろいうさぎ』だし。
好きな人の前で、このお話はとても読めない。
「嫌ですって」
ちょっとの間、押し問答していると、奥から祖母の声がした。
ちょうど買い物から帰ってきたところだった。
「玲伊ちゃん、いるのかい? 一緒にごはん食べていく?」