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もうこれは洗脳としか思えない。
「結葉、ただいま。遅くなってごめんね。体調はどう?」
置手紙には「なるべく早く帰るようにする」と書かれていたけれど偉央は実際にはいつもより一時間ばかり遅くなって帰宅した。
事前に電話で「ごめん、結葉。午後から患者さんが増えて今日は遅くなりそうなんだ」という連絡があったから、結葉は落ち着いた気持ちで待っていられたし、少々偉央の帰りが遅くなったからと言って時間が定められた予定があったわけじゃない。
何の問題もなかった。
むしろ、一人で過ごせる時間が伸びたことにホッとしてしまったくらいで。
それが、何となく後ろめたかった。
「お疲れ様です。体調は……ゆっくり身体を休められたのですっかり元気です」
結葉は偉央の荷物を受け取りながら、胸の奥にわだかまった罪悪感を誤魔化すみたいに笑顔を作る。
心の中では偉央の反応にビクビクする自分がいるのを一生懸命抑えながら、なるべく昔の自分を思い出そうと頑張ってみた。
「――それは良かった」
偉央はそんな結葉をとても穏やかな眼差しで見つめてくれて。
結葉は偉央の優しさを素直に受け取れない自分が心底嫌になる。
(偉央さん、ごめんなさい……)
こうして偉央から優しくされている時にでさえ、実は何か裏があるのではないかとか勘繰ってしまうし、もっと言えばほんの些細なことで偉央の態度が急変してしまうのではないかとビクビクしっぱなしで。
そんな自分が許せなくて苦しい結葉だ。
実際にはそれらは結葉が悪いわけではなくて、今まで偉央が彼女に対して取ってきた態度がそうさせているに過ぎないのだけれど――。
結葉は長い年月をかけて偉央から呪いのように掛けられた〝結葉が悪いんだよ〟という言葉の呪縛に囚われていて、そのことに気付けない。
「――こんなに遅くなる予定じゃなかったんだけど……。本当にごめんね、結葉。きっとお腹、空いたよね」
滅多に雪の積もらないこの辺りは、ほんの数ミリ足らずの積雪にでさえ、とても弱い。
ましてや今日は、この地域では実に十数年ぶりにニセンチ以上も積もったから。
午前中いっぱいは殆ど来院者がいなかった『みしょう動物病院』も、雪解けとともに交通機関が動き始め、それに伴って午前中の皺寄せが午後に押し寄せてきた感じで来院者数が一気に急増したらしい。
***
「遅くなったくせに悪いんだけど、ササッとシャワーだけ浴びさせてね」
偉央は仕事から戻るといつもいの一番に入浴を済ませる。
前に実家で想や想の父・公宣らと話し合いをした日、少し遅くなった偉央が迎えに来てくれたことがあるけれど、あの時でさえ偉央はちゃんとシャワーだけは家で済ませてから結葉の実家を訪れたのだ。
病院で様々なにおいを身に纏ってしまっているからそれを落としたいと言うのもあるらしいのだけれど、それよりも何かの病気を身体につけているかもしれないから、というのが最大の理由なんだとか。
もちろん来院者に感染症などの患畜が出た場合、スタッフともどもその時着ていた服などは全て院内で脱いで着替えるし、消毒も徹底するようにして院外には持ち出さない措置を講じるよう配慮はしているらしいのだけれど。
「何事にも『絶対』はないからね。念には念を入れたいんだ」
新婚当時、偉央がそう話してくれたのを、結葉は覚えている。
普段から帰宅後は入浴を最優先させるのも、そう言うリスクを軽減したいと言う偉央なりのポリシーなんだろう。
偉央のそう言う言動を目の当たりにするたび、獣医師も人間と変わらず〝お医者さん〟なのだと実感させられる結葉だ。
「もちろん大丈夫です」
結葉は偉央に努めて明るく見えるように意識してニコッと笑ってみせた。
偉央はそんな結葉を見て何故か一瞬泣きそうな、それでいて何かに怒っているような微妙な表情をして――。
その変化に、結葉は偉央の心を逆撫でするようなヘマをしてしまったのだろうかと鼓動が早くなる。
(ダメ。私、やっぱり偉央さんが怖い……)
どんなに穏やかに見えても、偉央が本心で何を考えているのかが分からないから、結葉は落ち着かない。
「どうしてだろう? 今日の結葉はいつもよりたくさん僕に笑いかけてくれるね」
どこか遠い目をしてつぶやかれた偉央の言葉に、「無理して笑っていたことがバレてしまったんだ。偉央さんは私のそういう態度を快く思っておられないんだ」と胃の奥がキリリとした痛みを訴える。
「……い、偉央さんが、いつもよりすごくお優しいので」
それに報いたいだけなのだと言外に含ませれば、偉央が「そっか」と淡く微笑んだ。
「僕はいつも通りのつもりなんだけどな? そんな風に感じるのは結葉がそうしなければならない何かを抱えているからじゃないの?」
聞こえるか聞こえないかの微かな声で低く密やかに零された偉央の言葉に、結葉はただただ背筋がゾクッとして。
(私、気付かないうちに偉央さんを怒らせるようなこと、何かしてしまったの?)
それが分からないから、結葉はひたすらに偉央の意味深な言動が怖かった。
***
一人呆然と立ち尽くす結葉を一瞥すると、偉央は「――とりあえずシャワー浴びてくるね。店にも予約を入れてあるし……続きは移動しながら話そうか」と、不穏にも聞こえる言葉を残して、バスルームへと消える。
***
偉央が風呂場に行ってしまってからも、結葉は微塵も動くことが出来ないままその場にいて――。
頭の中でひとつひとつ今日あったことを整理してみたけれど、思い当たる節がなくて混乱するばかりだった。
偉央が怒っている理由がハッキリと分からないから、結葉の心の中では訳もわからないままに恐怖心だけがどんどん膨らんでしまう。
「――偉央さん、ごめんなさい」
結果――。
結葉はついその感情から逃れたい一心で、偉央が戻ってくるなり条件反射のように謝罪の言葉を述べてしまっていた。
それが、偉央のなかに芽生えてしまった結葉への疑心暗鬼をさらに育ててしまって、自分をより一層追い詰めてしまうことになるだなんて、思いもしない。