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偉央は訳もわからないままに頭を下げた結葉を無言で見下ろすと、「続きは移動しながら話そうってさっき言ったよね?」と冷ややかな声音を投げかけてくる。
結葉は偉央のその抑揚のない声にビクッと身体を震わせると、「ごめ、なさ……」と小さくつぶやいた。
そんな結葉の様子に、偉央は苛立ったように舌打ちをして、結葉の手首を掴んだ。
「謝らなくていい」
吐き捨てるように言って、強引に結葉の手を引いて歩き出した偉央に、まろぶようにして付き従いながら、結葉は夕飯が喉を通る気なんて微塵もしなくて泣きたくなる。
(せっかく偉央さんが予約してくれたのに)
まともに食べられなかったら、彼にガッカリされてしまうと思ったら、結葉にはそれさえもプレッシャーとなって、重く重くのしかかった。
***
車での移動中、偉央から結葉に何かを問いかけてくることはなくて。
さっき偉央のシャワー後に一悶着あった謝罪の件にしても、結葉自身何が悪かったのか分かっているわけではなかったから。
結局結葉も偉央に何を話しかけたらいいのか分からなくて、ふたりして始終無言のままだった。
***
偉央が予約してくれていたのは、結婚前ふたりが恋人同士だった頃にデートで何度か食べに来たことのあるイタリアンのお店だった。
偉央はかつてはここへ、何かの節目――結婚が決まった時の祝いや、結葉が仕事を退職することになった時など――があるたびに結葉を連れてきてくれていた。
子供が出来たわけでもないのに、結婚後は偉央とこんな風にデートをしたことが、新婚当初を含めても数えるほどしかなかったことに思い至った結葉だ。
結葉が偉央の逆鱗に触れて以降は特に、偉央は結葉を家の中に押し込めて誰にも会わせたくないみたいに外食ですら激減していた。
記念日などにケイタリングを利用することはあっても、店に出向くことはほぼなくなっていたから、久々の外食をすごく新鮮に感じたと同時に〝何故?〟という思いが結葉の中にふつふつと込み上げてくる。
(今日は何かの記念日?)
結葉は、ふとそんなことを考えてしまって。
席についてすぐ、偉央は結葉には食前酒としてスプリッツというほろ苦いソーダ割りのカクテルを頼んでくれて、自分は運転があるからとジンジェリーノというノンアルコール飲料を注文した。
どちらも赤みがかった見た目がよく似ていて、パッと見には偉央の方にはお酒が入っていないだなんて分からない感じ。
「たまには結葉もお酒、飲みたいでしょう? 僕に遠慮せずたくさん飲んでね。僕と一緒だし、少々羽目を外して飲み過ぎたって問題はないよ?」
と微笑む偉央に、結葉はたまらなくソワソワしてしまう。
オロオロと自分を見つめてくる結葉の視線に気付いた偉央が、「結葉、このところ凄く気を張ってるみたいだったから。――ね?」と他意はないのだと含ませてくる。
「乾杯」
偉央にグラスを掲げられた結葉は、訳もわからないままにそれに合わせながら、ずっと疑問に思っていたことを彼に問いかけてみた。
「あの……偉央さん、……今日って何かの……」
――記念日だったりしますか?と続けようとして、もしも重要な何かの日だったとして、それを失念していると明言してしまうのはいけない気がして。
思わずセリフ半ばで言葉を止めた結葉だ。
「――ん?」
偉央はグラスの中身をひとくち口に含んで、そんな結葉に視線を向けると「ああ」と柔らかく微笑んだ。
「今日は何の日だろう?って気にしてる?」
聞かれてグラスを手にしたまま小さくうなずけば、偉央がクスッと声に出して笑って。
「ここに来る時はいつも〝何かの節目〟の時だったもんね。結葉が気にするのも当然か……」
そうつぶやくように言ってグラスを置くと、
「――けど、今日のは僕の中での個人的な節目だから結葉には分からなくて当然だよ。気にしなくていい」
偉央はそんな意味深な言葉を残す。
偉央のはっきりしない物言いに、結葉はますます混乱して。
「――まあ、とりあえず飲みなよ」
眉根を寄せて偉央を見詰めたら、結葉が乾杯をしてからひとくちも付けずに手にしたままのグラスに視線を転じて偉央が微笑んだ。
〝偉央さんが穏やかに微笑んでいるときは怖い〟
この数年でそう脳内に叩き込まれてしまった結葉は、ギュッと目をつぶってグラスの中身を半分以上一気に飲み干した。
何となくそうしないといけない気がしてしまったから。
飲酒自体数年ぶり。
そんな状態で空きっ腹にいきなりアルコールを入れてしまった結葉は、お酒の回りがいつも以上に早いのを感じて「少しペースを落とさなきゃ」と頭の中でぼんやり思って。
それなのに偉央は結葉のその行動を満足そうに眺めると、「いい飲みっぷりだね、結葉。キミの好きなスパークリングワインもあるし、後でそれも頼もうね」と嬉しそうにドリンクメニューを指差す。
結葉は「もうこれ以上は」と言いたいのに、偉央の顔を見るとそんな言葉でさえも言えなくて。
ふわふわとした頭で偉央の手元を見つめることしか出来なかった。
追加のお酒をお断り出来ないにしても、とりあえず何かを口にしないと、と酔いの回ってきた頭で一生懸命考えた結葉は、食前酒の付け合わせとして一緒に運ばれてきた、バゲットにオリーブオイルを塗って焼いたブルスケッタに手を伸ばす。
結葉は手にしたブルスケッタを一口大に千切って口に運びたいのに、指先の感覚が鈍くなっているのか、なかなかうまくいかなくて。
自分のそんなモタモタした様を、偉央が何も言わずに見つめているんだと思うと、余計に気持ちばかりが焦って全然千切り取ることが出来ない。