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儚 (はかな)
#ダーク
649
――あれから数日。
かつては「呪われた王子の牢獄」とさえ囁かれていたアレクシス様の寝室は、今や見違えるほどの変貌を遂げていた。
窓から差し込む陽光は、埃ひとつない床を白く照らし出し、開け放たれた窓からは、瑞々しい新緑の香りを孕んだ爽やかな風が吹き抜けている。
私は、新しく用意させた真っ白なシーツを、アレクシス様のベッドに自ら丁寧に敷いた。
指先から伝わる、太陽の匂いがする清潔な布の感触。これだけでも、人の心はどれほど救われることか。
ふと視線を向けると、アレクシス様は、目の前に並べられた料理をじっと見つめていた。
それは、私が厨房に掛け合って作らせた、新鮮な温野菜と、柔らかく煮込んだ鶏肉のスープ、そして焼き立ての白いパンだ。この世界では軽視されがちな「ビタミン」と「タンパク質」を豊富に含んだ、滋養強壮のためのメニュー。
アレクシス様は、銀の匙を握ったまま、ひどく困惑したように眉を寄せていた。
無理もない。これまでは、冷めきった硬いパンや、得体の知れない残り物ばかりを押し付けられてきたのだから。
「では、これからは毎日、このような食事をお作りします。ですからアレクシス様、残さずしっかり召し上がってくださいね。身体の免疫機能を高めるには、まず栄養を摂ることが基本ですから」
私が屈託のない笑みを浮かべてそう言うと、アレクシス様は匙を置き、揺れる黒曜石の瞳を私に向けた。
その眼差しには、私に対する深い戸惑いと、それ以上の、痛々しいほどの震えが混ざっている。
「どうして……私のためにそこまでしてくれるのだ? 私は君に、何も返すことなどできない。それどころか、私に関われば君の身にまで災いが及ぶかもしれんのだぞ」
本当に理解できない、という顔。自分が誰かに無条件で慈しまれるなど、彼のこれまでの人生の辞書には存在しなかったのだろう。
私は、彼の傍らに歩み寄った。そして、彼の不安をすべて溶かすように、優しく、けれど絶対に揺らがない確信を込めて微笑む。
「あなたを魔……いえ、不幸になんてさせないから。絶対に救ってみせます。そのために、私はここに来たのです」
「……っ」
アレクシス様は息を呑んだ。
そして――。
彼の端正な唇が、ほんの少しだけ、不器用に弧を描いた。
それは、彼が生まれて初めて見せた、心の底からの純粋な笑顔だった。
――この方の笑顔。こんなに胸が苦しくなるほど美しいのに。今まで、誰も気づいてあげようとしなかったのね。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような愛しさに満たされる。私は改めて、自分の全存在を賭けてでもこの方を、アレクシス様を守り抜くのだと誓った。
*
その日の午後――。
私は城の最上階にある、巨大な図書館へと足を運んでいた。
天井まで届く本棚には、何百年も前の煤けた書物がぎっしりと詰め込まれている。カビと古い紙の匂いが充満する空間で、私は一人、机の上に何冊もの分厚い古書を広げていた。
バサリ、バサリと、ページをめくる乾いた音だけが静寂に響く。
私は目を皿のようにこらして、インクの掠れた文字を追った。
「リリア様、先ほどからずいぶんと熱心に……。いったい何をお探しなのですか?」
声をかけてきたのは、眼鏡をかけた初老の司書だった。彼は、伯爵令嬢である私が、このような埃っぽい場所で難解な本と格闘しているのを不思議そうに眺めている。
「感染症についての記録を探しているの。特に、この国や周辺諸国で過去に起きた、大規模な疫病についての記述を」
「ああ、なるほど……。疫病ですか。確かに、我が国も過去に何度か、原因不明の恐ろしい病に襲われ、多くの民が命を落としましたな。ですが、そんな古い記録を調べてどうされるのです?」
「予防のために少しでも情報が必要なのよ」
私は曖昧に微笑み、再び本に視線を落とした。
――乙女ゲームのシナリオの中では、アレクシス様は23歳の時、突如として発生した流行病に感染してしまう。
一命は取り留めるものの、その後遺症として、彼の全身には醜い痣が残ることになる。
母后からは『やはり悪魔の呪いだ』となおさら虐げられ、民からも忌み嫌われ……彼は完全に心を閉ざし、闇堕ちの道を歩み始めてしまう。
ここで予防しなければ、シナリオ通りの悲劇が繰り返される……! 私がそれを、絶対に阻止してみせる!
*
それからの私は、アレクシス様の部屋への訪問を、文字通り「日課」にした。
どんなに忙しくても、一日の大半を彼の私室で過ごす。
現代の日本であれば当たり前の「手洗い」や「うがい」の徹底。
部屋の換気、日光消毒。
そして、栄養バランスを考え抜いた食事の摂取。
私が持ち込んだ「科学的習慣」は、少しずつ、けれど確実にアレクシス様を変えていった。
最初は、いつ私が手のひらを返すのかと、暗く、自嘲的な無表情を貫いていた彼。
それが数日後には、私が部屋に入ると、わずかに表情を和らげるようになり――。
数週間が経つ頃には、私との他愛のない会話に、柔らかな微笑みを浮かべる頻度が増えていった。
「また、来てくれたのか」
ある日の夕方。扉を開けた私を出迎えたアレクシス様の声には、隠しきれない喜びの色が滲んでいた。それは、彼が人生でほぼ初めて表に出した「他者への甘え」の感情だったのかもしれない。
「当たり前です。私は毎日来ますよ。殿下が『もう来ないでくれ』と仰っても、窓から忍び込んででも来ますからね」
「ふ……君なら本当にやりかねないな」
アレクシス様は、楽しそうに喉を鳴らして笑った。その笑顔を見るたび、私の心臓は熱狂的なファンとしての歓喜と、一人の女性としての愛おしさで、激しく掻き乱される。
だが――。
そんな幸福な時間は、唐突に終わりを告げた。
アレクシス様の部屋を辞し、夕闇の迫る城の長い回廊を歩いていた時のことだ。
前方から歩いてくる二人の侍従が、声を潜めて何やら深刻な面持ちで話し込んでいるのが耳に入った。
「……聞いたか? 城下町で、奇妙な激しい咳をしている者が急増しているらしい」
「ああ、なんでも、病の息子の看病をしていた母親が、数日後には自分も全く同じ症状で倒れたとか……。瞬く間に家族全員に広がるそうだ。恐ろしいな」
その言葉を聞いた途端。
私の身体は、落雷に打たれたように硬直した。
一気に血の気が引き、心臓が警鐘を乱打し始める。
――黒死病……ペスト!
いや、この世界ではそんな名前ではないはずだけど、間違いない。
これは、飛沫感染と接触感染を主とする、強力なウイルス性、あるいは細菌性の急性疾患だわ。ネズミなどの野生動物を媒介として、不衛生な環境で爆発的に広がるタイプの……!
ゲームの年表が、鮮明に脳裏に蘇る。
シナリオ通りなら、一年後に大流行するはずの疫病……。それが、もう始まろうとしているの!?
どうして? 私がゲームとは違う行動をしたから、時間軸が変わった?
いえ、そんな因果関係など今はどうでもいい。
急がなければ。
今から徹底的な予防措置を取らなければ、城下町はおろか、この城の人間も……そして何より、アレクシス様が……!
手のひらに嫌な汗が滲む。
そのままその手で拳を作ると、ぎゅっと強く握りしめた。
推しを、絶対に病気にさせない。あの美しい身体に、絶望の痣なんて、一つも作らせるものですか……!
*
翌日――。
私は、前世の医学知識を総動員してまとめた「感染予防策」の羊皮紙を手に、国王の謁見室へと乗り込んでいた。
玉座に鎮座する国王の前に立ち、私は一歩も引かずに声を張り上げる。
「陛下! 城下町で発生している奇妙な咳の病は、極めて強力な伝染力を持った疫病です。この拡大を防ぐためには、今すぐ国を挙げての対策が必要です!」
玉座の国王は、面倒そうに片眉を上げた。
「リリエンタール家の小娘か。聖女の姉だからと特別に謁見を許せば……まったく、朝早くから騒々しい。我が国の衛生や医療については、そこにいる宮廷医師たちが完璧に管理しておる。何か、不服でもあるというのか」
国王の傍らには、豪奢なローブを纏った宮廷医師たちが、腕を組んで私を冷ややかに見下ろしていた。
「それに我が国には聖女もいる。宮廷医師だけでなく、回復魔法に長けた神官も多数いる。万が一、病が流行っても、回復魔法でどうとでもなる」
「陛下、これは従来の病とは訳が違います。これ以上の感染拡大を防ぐため、まずは発症した患者の厳格な『隔離』、および、徹底した『衛生管理』の布告を城下町に出していただきたいのです!」
私の必死の訴えに、宮廷医師の長が、鼻を鳴らしてせせら笑った。
「はっ! リリエンタール家のご令嬢とはいえ、聖女様ではないほうか。魔力も持たない不出来な小娘が。いったい何を偉そうにほざくかと思えば。隔離だと? 衛生管理だと? 笑わせるでないわ」
「何を笑うことがありますか! これは命に関わる問題です!」
「これだから素人は困る。聞けば、魔力をほとんどお持ちではないとか。先ほど、国王陛下がおっしゃっていたように、病など、我々や神官たちが『回復魔法』を施せば、一瞬にして解決する問題だ。わざわざ大袈裟な騒ぎを起こして、民を不安にさせてどうする」
別の医師も同調するように頷く。
「その通りだ。魔法という神聖な癒しの力があるというのに、そのような小細工など必要ない」
私は、彼らの言葉に眩暈を覚えた。
――この人たち、ダメだわ。『感染症』という概念そのものが、この世界には存在しないんだ。
目に見えないウイルスや細菌の存在を知らず、すべての病を魔法という「対症療法」で解決してきたつけが、ここに来て最悪の形で表れている。
このペストのような病には、従来の魔法が効かない。
そのため、死者が多数出てしまったのだ。
抗生物質も抗ウイルス薬もないこの中世風の世界で、魔法に頼り切った医療体制は、ひとたび魔法の効かない未知のウイルスが蔓延すれば、一瞬で崩壊する。
「……それで、そなたは具体的にどうせよと言うのだ」
国王が、退屈そうに尋ねる。
「繰り返します、陛下。まずは感染者の隔離。そして、手洗いやうがいの励行、衣服の煮沸消毒です。『清潔さ』こそが、最大の予防法となるのです!」
「ふん、馬鹿らしい。お前のおままごとに付き合っている暇はない」
宮廷医師たちは吐き捨てる。
国王は、「もうよい。下がれ」と、私の訴えを完全に一蹴し、謁見室を出て行ってしまったのだった。
*
国王への進言は、完全な失敗に終わった。
だが、私は絶望している暇などない。権力者や国が動かないのなら、私は私にできる最善の手段を取るまでだ。
私は、ドレスの裾を翻してアレクシス様の部屋へと走り込んだ。
突然、息を切らせて飛び込んできた私に、アレクシス様は驚いて立ち上がった。
「殿下! どうか、私の言葉を信じてください!」
私は、彼の逞しい両肩を掴み、必死の形相で訴えかけた。
「何があったのだ、リリア……? そんなに青い顔をして」
「今、城下町で恐ろしい病が広がっています。宮廷医師たちは楽観視していますが、これから間違いなく、この国全土を巻き込むような大流行が起こります! 本来なら、来年あなたが23歳を迎える頃に猛威を振るうはずの災厄が、何らかの影響で早まっているのかもしれない……!」
「流行病……? だが、どうして君にそんなことが分かるのだ」
「それは……っ」
ゲームの知識だから、とは言えない。私は彼の目を真っ直ぐに見つめ、魂を込めて語りかけた。
「私の持つ、医学の知識がそう告げているのです。ですから殿下、お願いです。流行が収まるまで、絶対にこの城から、この部屋から出ないでください! そして、私が教えた手洗いと消毒を、これまでの何倍も徹底してください。清潔さだけが、あなたを守る最大の防御なのです!」
普通なら、狂人の戯言だと笑われるかもしれない。
けれど、アレクシス様は、私の狂気的なまでの必死さをじっと見つめた後――。
迷うことなく、即座に頷いた。
「わかった。お前を信じる」
「え……?」
「君がそこまで言うのだ。何か確固たる理由があるのだろう。私は、君の言葉を疑わない」
――この人は……ゲームの中の、誰も信じられなくなった孤独な魔王とは違う。私を、こんなにも無条件で信じてくれている。
だからこそ、私は絶対に彼を裏切らない。彼のその信頼に、命に代えても応えてみせる!
そう心に誓ったのだった。
*
翌朝。
城の巨大な正面玄関前には、重厚な鎧を着た騎士団と、華やかな馬車が並んでいた。
その中心に立っているのは、白銀の神聖な法衣に身を包んだ、私の妹――聖女マリアだった。
彼女が動くたび、周囲の貴族や兵士たちから「おお、聖女様……!」「神の御加護を!」と、割れんばかりの称賛と崇拝の歓声が上がる。
一方、私はそんな華やかな光景から遠く離れた、建物の陰からその様子を見守っていた。
これからマリアは、国境付近の聖地で行われる「聖戦」の儀式へと出陣するのだ。
だが、私の足は、気づけば日陰から飛び出し、彼女の元へと駆け出していた。
「マリア! ちょっと待って!」
私の鋭い声に、周囲の歓声がピタリと止まる。
マリアは振り返り、私を見ると、ひどく冷淡で、小馬鹿にしたような視線を向けた。
「あら、お姉様。珍しい、わたくしを見送ってくださるの? けれど、お見送りにしては随分と見すぼらしい格好ですこと」
そう言ってクスクスと笑う。
傍に控える侍女も私の姿を見ると、蔑んだように含み笑いをした。
「そんなことはどうでもいいわ。マリア、今、城下町で原因不明の重い病が流行しているの。あなたの行く道中も、感染のリスクが非常に高いわ」
「は?」
マリアは、信じられないものを見るように目を見開いた後、扇で口元を隠して上品に笑った。
「お姉様、何を馬鹿なことを仰るの? 聖女に選ばれたこの私が、そのような下民たちの罹る汚らしい病などに感染するとでも? わたくしの身体は、神聖な魔力によって常に守られているのですよ」
「魔力があっても関係ないわ! これは目に見えない病原体の問題なの! だから、どうか移動中も手洗いを……」
「ふふ、お姉様に心配されなくても大丈夫よ。わたくしは聖なる力で守られているの。魔力もない無能なお姉様は、そこで指をくわえて私の活躍を見ていればいいわ」
マリアは、私の言葉を完全に嘲笑し、冷たく背を向けた。
「……マリア、気をつけて。本当にお願いだから、油断しないで」
私の静かな、けれど切実な呟きに、マリアの背中がピクリと強張った。
彼女は一瞬だけ、驚いたように肩越しにこちらを振り返った。
無理もない。これまでの「リリア」は、彼女に嫉妬し、呪うような言葉しか投げかけてこなかったのだから。本当の意味で妹の身を案じる言葉をかけたのは、これが初めてだと思う。
――妹への劣等感。
できのよい妹とずっと比較され、蔑まれてきた悔しさは、今も私の心に深いトラウマとして刻まれている。
けれど……それ以上に、私は一人の元・医療従事者として、妹の命の危機を見過ごすことはできない。
元・医療従事者としての使命感だ。いや、もしかするとこれが……血を分けた姉としての、本当の愛なのかもしれない。
*
数時間後。
聖女マリアの一行は、熱狂的な民に迎えられながら城下町を通過していた。
マリアは、慈悲深い聖女の笑みを浮かべ、馬車から身を乗り出して、次々と集まる民の頭に手を触れ、祝福を与えていく。
だが――。
彼女は、マスクも、手袋も、何の予防措置もしていなかった。
彼女の手にすがる民の中には、顔面を蒼白にし、激しく咳き込み、足元に血の混じった唾を吐き出す者が、確実に混ざり始めていた。
*
その翌朝、私はいつものようにアレクシス様の部屋へ向かっていた。
ところが、城の空気が違った。
廊下を行き交う侍従たちの足音が、いつもより速い。すれ違う者たちの顔が、一様に青ざめている。何かを囁き合う声が、あちこちから聞こえてくる。
(何かあったの……?)
嫌な予感が、胸の奥でじわりと広がった。
足を止め、回廊の柱の陰に身を潜めると、謁見室の方向から侍従の悲痛な叫び声が響いてきた。
「陛下! 緊急事態にございます! 城内で、突如として激しい発熱と咳の症状を示している者が出ました!」
「何だと!? どこの誰だ、その者は!」
「城下町から物資を運び入れる役目をしている下男にございます……!」
「そんな者、城から追い出せ」
「いえ……実は、数日前からその者には、咳の症状が出ていたそうで。その者と接した城の者たちが次々と同じような症状で倒れており……」
「宮廷医師たちは何をしている?」
「それが、既存の魔法が効かないと……」
その言葉を聞いた瞬間。
私の脳裏に、絶望的なアラートが鳴り響いた。
――予防措置が、間に合わなかった……! ウイルスの城内への侵入を許してしまったんだわ。
拳が、ドレスの生地を強く握りしめる。
それでも……アレクシス様だけは、何としてでも守り抜かなければ!
私は、ドレスの裾を両手で掴み、なりふり構わず全力で城の廊下を走った。
息が切れ、肺が燃えるように熱い。
けれど、足は止めない。
救急病棟で走り回っていた頃を思い出す。
アレクシス様の部屋の扉を乱暴に開ける。
「リリア?」
きょとんとした顔で、アレクシス様が私を見つめる。
元気なアレクシス様を確認した瞬間、私は膝から崩れ落ちそうになった。
私は彼に走り寄る。
(間に合った……まだ、間に合っている。でも今、喜んでいるヒマはない)
城の廊下を走りながら、私はずっと自分を責め続けていた。もっと早く動けばよかった。国王への進言だけでなく、城内のすべての出入口に衛生管理の指示を徹底すべきだった。前世で感染症対策を学んでいたはずなのに、私はまだ、この世界の常識に引きずられていた。
医師として、それは致命的な判断の遅れだ。
患者を前にして、「どうせ聞いてもらえない」と諦めた瞬間、私は医師ではなくなる。前世の私の指導医は、そう言っていた。
(だから、諦めない。まだ間に合う)
「殿下! 城内で最初の感染者が出ました! とにかく、今以上に外部との接触を断ち、隔離を徹底してください!」
「リリア……君の言った通り、本当に病が……?」
アレクシス様は、私の尋常ではない様子に、事態の深刻さを悟ったようだった。
「君の警告がなければ、私は無防備に従者たちと接触していたかもしれない……」
「ですから、絶対に油断しないでください。手洗い、消毒、何度も何度も、しつこいほどに繰り返してください!」
私が必死に彼の手を包み込む。
アレクシス様は、私のその小さな、けれど温かい手を、今度は彼の方から強く、強く握り返した。
「……君は、怖くないのか」
低く、掠れた声だった。
「怖い、です」
私は正直に答えた。
「とても怖い。でも、怖いから動かないでいたら、守れるものも守れなくなる。その方が、もっと怖いんです」
アレクシス様は、私の言葉をゆっくりと噛み締めるように、長い沈黙の後に呟いた。
「……君は、不思議な人間だな」
「よく言われます」
「褒めているのだぞ」
その言葉に、私は思わず小さく笑ってしまった。彼も、釣られるように、かすかに口の端を上げた。
「私は君の言葉を信じる」
「はい」
「生まれて初めてだ。人を信じてみようと思ったのは」
城内に死の影が忍び寄る中で。それでも二人の間に流れるその空気は、不思議なほど穏やかだった。
二人の信頼関係は、以前よりも固く結ばれようとしていた。
*
その日の夜。
私室に戻った私は、燭台の灯りの下で羊皮紙を広げた。
震える手に、ペンを持つ。
『記録。
感染症拡大防止のための覚書。アヴァロニア王国、1346年3月。
城内感染者、第一号確認。城下町からの物資搬入者、男性、推定年齢三十代。
症状は高熱、激しい咳、および血痰。飛沫感染および接触感染の可能性が極めて高い。
現時点での対応策——』
ペンを走らせながら、私の頭の中では前世の記憶が猛烈な速度で回転していた。
隔離。手洗い。換気。煮沸消毒。感染経路の遮断。
現代日本のような科学技術のないこの世界では、それくらいしかできない。抗生物質も、抗ウイルス薬も、PCR検査も、人工呼吸器も、何もない。あるのは、知識と、鉄のような意志と、動き続ける足だけ。
(それだけで足りるのだろうか)
燭台の炎が、窓から入る夜風に揺れた。
足りなくても、やるしかない。前世の私が医師を志したのは、目の前の人を救いたかったからだ。魔法があろうとなかろうと、科学があろうとなかろうと、その理由は変わらない。
最優先事項——アレクシス様の感染防止。
アレクシス様は長年の劣悪な環境により、免疫機能が著しく低下していると推測される。感染した場合、重篤化するリスクが通常より高い。絶対に、感染させてはならない。
ペンを止め、私は窓の外を見上げた。
暗い夜空に、星がひとつ、瞬いている。
(アレクシス様)
今日、彼は「君を信じる」と言ってくれた。
その言葉の重さを、私は一生忘れない。
だから絶対に、裏切らない。
アレクシス様を助ける――。
私は再びペンを手に取り、夜明けまで、記録を書き続けた。
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