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モデルパロディ×女装 二つの顔を持つ君へ~a×s~
Side阿部
俺は大学の中で、どういうわけか”人気者”という立場にあるらしい。
キャンパスを歩けば、必ず誰かが声をかけてくる。廊下で女子がひそひそ話をしているのも耳に入るし、視線を向ければ慌てて逸らされることも珍しくない。そういう反応に慣れてしまったのは、きっと俺自身が無関心を装ってきたからだ。
告白されたことも一度や二度じゃない。正直、最初は驚いた。自分なんかがそんなふうに好意を向けられるなんて思ってもいなかったから。でも、付き合ってみても、長くは続かなかった。どの恋も、似たような終わり方をする。
「阿部くんは、私じゃなくてもいいんでしょ?」
その言葉を最後に、俺は何度も別れを告げられてきた。
たしかに、俺は特別な言葉を並べるのが得意じゃない。優しくしようと思っても、ただ淡々と落ち着いて見えるだけなのかもしれない。相手が欲しがるような「君じゃなきゃ駄目なんだ」という熱を、俺は上手に伝えられなかった。そうして気づけば、気持ちはすれ違い、関係は静かに終わっていく。
そういうことが重なってからは、付き合うこと自体に慎重になった。恋愛というものは、俺には向いていないんじゃないか──そんなふうに思うようになった。
気づけば、周囲からは「どうして彼女を作らないのか」と噂される存在になっていた。
無関心を装っていても、耳に入る声はある。
「やっぱり遊んでるんじゃない?」
「完璧すぎて、逆に付き合いづらいんだよ」
「理想が高いんでしょ」
どれも俺の本心からは遠い憶測だ。だけど、否定しようと口を開くことはなかった。説明してもわかってもらえるものじゃないし、わざわざ弁解するほどの熱意もない。俺にとってはただ、しっくりくる恋がまだ訪れていない──それだけの話なのに。
けれど、その”空白”が俺の印象を形作ってしまっているのだろう。
俺は今日も、大学の喧騒の中でただ静かに笑い、適度に会話をこなし、そして噂を背に受けながら過ごしていく。
昼休み、いつものように学食から出て、中庭のベンチに腰を下ろした。風が心地よくて、目を閉じると春の匂いがほんのりと鼻をくすぐる。そんなふうに一息ついていると、背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「よっ、男前!」
軽快で弾むような声。振り返らなくても誰だか分かる。
「深澤……」
少し呆れたように返すと、満面の笑みを浮かべた深澤が、缶コーヒーを片手に俺の隣へ腰を下ろした。
「さすが阿部ちゃん、歩いてるだけで女子の視線集めすぎ。俺まで勝手に緊張するんだよ」
「そんなことないよ」
「あるって!だってさっきも見てただろ?隣の学部の子たち。ほら、また目逸らした」
からかうように笑う深澤に、俺はただ肩をすくめる。そういうことには慣れているつもりだけど、指摘されると少し居心地が悪い。
「で?また振られたんだって?」
「……どこからそんな話が」
「いや、噂。阿部ちゃんの恋愛事情って、学内じゃ結構みんなの関心事なんだよ」
俺は小さくため息をつく。恋愛のことは、誰かにとっての娯楽でしかないのかもしれない。けれど俺にとっては、もう少し切実で、そしてどこか虚しい話題だ。
「また、『阿部くんは私じゃなくてもいいんでしょ』って言われたんだろ?」
深澤は冗談めかして言ったが、その言葉は図星だった。胸の奥が少しだけ痛む。
「……まぁ、似たような感じかな」
「罪なやつだなぁ」
「そんなつもりはないんだけど」
本当にそうだ。俺はいつも誠実でいたいと思ってきた。遊びで誰かと付き合ったことなんて一度もない。けれど気づけば、相手の不安を消してやることができなくて、最後には「阿部くんは誰でもいいんでしょ」と突きつけられて終わる。それが繰り返されてきた。
「なぁ、阿部ちゃん」
「ん?」
「本当に恋ってしたことあるの?」
深澤は何気なく言ったつもりなんだろう。けれど俺には、その言葉が鋭く心に刺さった。
恋。
俺は、本当に恋をしたことがあるのだろうか。
思い返してみても、相手の顔を思い浮かべて胸が苦しくなるような感情や、どうしてもそばにいたいと願う強烈な衝動を抱いたことは、正直なかった。付き合えば大切にしようとは思ったし、傷つけたくないという気持ちもあった。けれど、それは「好きだから」なのか、それとも「優しさからの義務感」なのか、自分でもよく分からなかった。
──もしかしたら俺は、本当の恋なんてしたことがないんじゃないだろうか。
そう考えた瞬間、胸の奥に冷たい風が吹き抜けるような気がした。誰かに愛されたいと思いながらも、その気持ちを正しく受け取れずにいる。相手が求める熱を返すことができず、結果として「阿部は私じゃなくてもいい」と言わせてしまう。そんな自分が、少し怖かった。
「……どうだろうね」
俺は曖昧に笑って返した。
深澤は俺の表情をちらりと見て、何かを察したのか、それ以上は踏み込まなかった。代わりに缶コーヒーを開けて、ぐいっと一口飲む。
「ま、いつか本気の恋すりゃ分かるよ。そのときは俺に報告しろよな」
「……うん」
心のどこかで「そんな日が来るのか」と疑いながらも、俺は頷いた。深澤の軽口が救いのように感じられるのは、きっと彼が深く追及せず、ただ隣にいてくれるからだろう。
学内は今日もざわめきに満ちている。笑い声や会話が飛び交い、何気ない日常が続いていく。その喧騒の中で、俺はふと空を見上げた。淡い春の光が雲の隙間から降り注ぎ、眩しさに目を細める。
──本当の恋。
俺がまだ知らないその感情は、いつか俺のもとに訪れるのだろうか。
―――――――――――――――――――
その日は特別な予定もなく、ただなんとなく街を歩いていた。
休日の午後、人通りの多い交差点は賑わいに包まれていて、雑踏のざわめきが耳を埋める。行き交う人々の表情はさまざまで、友達と笑い合う声、急ぎ足で通り抜ける靴音、カフェから漂う甘い香り──それらが渦のように混ざり合い、俺はその中で取り立てて目的もなく歩を進めていた。
ふと、頭上の巨大なスクリーンに目が引き寄せられる。
街頭スクリーンに映し出されたのは、ひとりの女性モデルだった。
光を受けて輝くような艶やかな黒髪。切れ長の瞳は、画面越しでも凛とした強さと柔らかさを同時に放っている。滑らかな白い肌に、赤い唇が鮮やかに映えて、思わず息を飲むほどの美貌。周囲の喧騒が遠のいて、映像の中の彼女だけが、俺の視界を独占した。
──綺麗だ。
それだけじゃ足りなかった。
ただ美しいという以上に、何か抗えない力を持っているように感じた。視線を逸らそうとしても、どうしても目が離せない。胸の奥が熱くなり、鼓動が速まっていく。今まで誰かを前にして、こんなふうに心を奪われたことは一度もなかった。
画面の中の彼女は、華やかなドレスをまとい、微笑を浮かべている。その微笑は作られたもののはずなのに、妙に温度を持って見えて、俺だけに向けられたもののように思えた。
「……会いたい」
自分の口から、無意識に言葉が零れていた。
隣に誰もいないことをいいことに、俺はその小さな声を誤魔化すように咳払いする。けれど、その瞬間に胸を突き上げた衝動は、どうしても否定できなかった。
──この人と、出会いたい。
理由なんて分からない。ただ強くそう願った。
いつもなら「どうせ俺には似合わない」と諦めるはずの俺が、その時ばかりは不思議と自分を止められなかった。
街の雑踏の中、俺は立ち止まったまま見上げていた。巨大なスクリーンに映る彼女の姿は、遠いはずなのに手を伸ばせば届きそうで──そして、俺の知らない何かをはっきりと教えていた。
初めて…
本当の意味で「恋」という言葉を自分に重ねた。
―――――――――――――――――――
巨大スクリーンに映っていたあの女性の姿は、その日から何度も俺の脳裏をよぎった。
講義中も、友達と他愛ない会話をしているときも、夜眠ろうと目を閉じても、気づけば彼女の微笑みを思い出している。
「……一体、誰なんだろう」
居ても立ってもいられず、帰宅してすぐにパソコンを開いた。
モデルの名前を調べようと検索窓に思いつく限りの言葉を打ち込む。CMのブランド名、スクリーンで流れていた広告のコピー、衣装の雰囲気……。だが、出てくるのはどれも無関係な記事や、似て非なる別人の写真ばかりだった。
SNSを覗いてみても同じだった。今の時代、少し有名になれば誰かしらが撮影現場の情報や裏話を発信しているはずなのに、彼女に関する手がかりは驚くほど何もない。まるで彼女だけが”虚構”のように、情報が欠片ひとつ残されていなかった。
「……こんなことある?」
モデルの世界に詳しいわけではない俺でも、それが異常なことだと分かった。情報がゼロということは、知ることさえ許されない存在なのかもしれない。そう考えるほど、ますます知りたいという気持ちは膨れ上がっていった。
──このままじゃ、ただの憧れで終わる。
けれど、俺はどうしても彼女に会ってみたかった。
その夜、衝動に突き動かされるように、俺はモデル事務所のサイトを開いていた。
「新人モデル募集」の文字が目に飛び込んでくる。これまでなら素通りしていたはずのページ。けれど、そのときの俺は迷わなかった。
──もし、彼女がどこかの事務所に所属しているのなら。
──もし、同じ業界に飛び込めば、出会える可能性があるのなら。
そんな淡い希望が、俺を押し出していた。
応募フォームに名前や身長、体重、簡単な経歴を打ち込んでいく。
履歴書に書くべき「芸能経験」なんて当然空欄だ。それでも送信ボタンを押す指は震えていなかった。むしろ、胸の奥で熱が燃えるように高鳴っていた。
数日後、事務所から「一次審査通過」の通知が届いたとき、俺は信じられなかった。さらに面接とカメラテストに呼ばれ、スーツに身を包んで足を運ぶ。
狭い会議室で、数人のスタッフの前に立たされる。スポットライトを浴びるような感覚に緊張したが、レンズを向けられると不思議と心が静かになった。
「……視線、いいですね」
「立ち姿がきれいだ」
審査員の小さな言葉が耳に残った。俺自身はただ真っすぐ立っていただけなのに、何かが伝わったのだろうか。
その日の夕方、帰宅してほどなく電話が鳴った。
「合格です。ぜひ、モデルとして活動を始めてみませんか」
その言葉に胸が跳ねた。夢を追ってきたわけでもない俺が、まさかこんな世界へ足を踏み入れることになるなんて想像もしなかった。けれど、頭のどこかでは確かに理解していた。
──すべては、あの街頭スクリーンの女性に近づくために。
彼女の名も、素性も、ネットを探しても一切わからなかった。
だからこそ、自分の足でこの世界に飛び込み、掴みにいくしかない。
俺は静かに息を整え、胸の奥に芽生えた決意を確かめた。
今までの曖昧な恋ではなく、本当の衝動に突き動かされて。
そうして、俺の新しい道が始まった。
――――――――――――――――――
大学の講義を終えて、慌ただしく電車に揺られる。数か月前までは考えもしなかった「モデルの仕事」というもう一つの生活が、今の俺の日常に加わっていた。
最初は右も左も分からず、ポージングもぎこちなくて注意ばかり受けていた。それでも現場に立つたびに少しずつ要領を掴み、プロのメイクやライティングに整えられてカメラの前に立つ時間は、今では不思議と心地よいものになっていた。
その日、事務所のスタッフに呼ばれた。
「阿部くん、今日は一緒に撮影に入ってもらう先輩を紹介するね」
振り返った先に立っていたのは、茶色がかった髪を無造作に整えた、明るい雰囲気の男性だった。柔らかな笑みを浮かべ、第一印象から人を安心させるようなオーラを纏っている。
「佐〇〇〇介、っていいます。よろしくね」
差し出された手に、思わず姿勢を正して答える。
「……〇〇阿部です。よろしくお願いします」
「おお、すごいイケメン。しかもしっかりしてる。でも敬語とかいいよ、堅苦しいの苦手だから」
「えっ……でも、俺、新人なんで」
「新人とか先輩とか関係ないって。モデルって距離感近い方がやりやすいこと多いからね。ほら、撮影で”仲良し風”とかやるとき、敬語だとぎこちなくなるでしょ?」
にこにこと笑いながら、あっさり壁を崩してくるその人柄に、俺は少し驚いた。今まで出会ったモデル仲間はどこかストイックで、緊張感が漂っていることが多かったからだ。
「……じゃあ、佐久間さん、でいいですか」
「佐久間でいいよ」
「じゃあ佐久間」
「うんいい感じ!あ、あと阿部ちゃんって呼んでいい?」
「……阿部ちゃん?」
「うん。俺、呼びやすい方が好きなんだ。仲良くなった方が撮影もうまくいくよ」
あまりに自然に名前を呼ばれ、思わず笑ってしまった。
「……なんか、変な感じ」
「いいじゃん。ほら、笑った方が似合うよ?でも、笑い方はもっと柔らかい方がカメラ映えするかも。口角ちょっと上げて……そうそう」
軽口を交わすうちに、撮影の時間がやってきた。
今日のテーマはメンズカジュアルの特集。二人組でのショットが多く、俺と佐久間は並んで立たされる。
「はい、二人寄り添って。ちょっと友達っぽい感じで」
カメラマンの声に、俺は自然に立ち位置をとるが、肩が少し固いのが自分でも分かった。
「阿部ちゃん、力入りすぎ。ほら、リラックスだよ」
そう言いながら、佐久間は軽く俺の肩に手を置いた。
「……え?」
「友達だと思ったら楽でしょう?大丈夫、カメラマンさんもそれを求めてるんだし」
彼の手が置かれただけで、場の空気が柔らかくなるのを感じた。撮影が再開され、レンズの向こうに向き合う。シャッター音が何度も響くたびに、俺の緊張は少しずつ解けていった。
「そうそう!二人、いい雰囲気だね」
「ほらね?やっぱ距離感大事でしょ」
佐久間は俺に小声で囁き、いたずらっぽく笑った。俺もつられて表情が緩む。
「次は二人で並んで歩く感じいこうかー!」
「はいはい!阿部ちゃん、歩調合わせて」
「……うん」
スタジオの中を並んで歩く。ほんの数メートルの距離を一緒に進むだけなのに、不思議と空気が合う。俺の歩幅に合わせるように佐久間がテンポを調整してくれるのが伝わって、思わず心が落ち着いた。
シャッターが切られる音が止むと、カメラマンが笑顔を見せた。
「いいねぇ!二人とも、今日が初めてとは思えないよ」
スタッフも頷きながらメモを取っている。その光景を横目に、俺は改めて佐久間に目をやった。
「……ありがとう。俺、まだ慣れてなくて」
「気にしなくていいよ。最初はみんなそう。けどね、楽しんでやるのが一番だよ。笑ったら、もっといい顔になるから」
そう言って俺の背中を軽く叩く彼の笑顔は、眩しいくらいだった。
その瞬間、俺の中にあった緊張はすっかり消えていた。
大学生活だけでは知ることのなかった、新しい世界の入口。そこに立つ俺の隣に、この先輩がいることが、妙に心強く感じられた。
撮影が終わって、スタジオを出ると夜の気配が街を包み始めていた。ライトの熱で火照った体を冷ますように、夕方の風が頬を撫でる。俺と佐久間は同じ方向に帰るらしく、並んで歩いていた。
「おつかれ〜阿部ちゃん。今日、初コンビにしてはすごく良かったんじゃない?」
「うん。佐久間が横で声かけてくれたから、だいぶ楽だった」
「お、素直だね〜。俺、後輩からそう言われるの弱いんだ」
「ふふ……」
佐久間といると、どうしてか自然と笑いが零れる。大学の友達とも楽しく話せるけど、この人と一緒にいるときはまた違う。空気がやわらかくて、肩の力が抜けていく。
しばらく沈黙のまま歩いていたが、ふいに佐久間が口を開いた。
「なぁ、阿部ちゃん」
「ん?」
「阿部ちゃんはどうしてモデル始めたの?」
唐突な問いに、思わず足を止めそうになった。
「……どうしてって?」
「そう。だって阿部ちゃん、大学じゃすでにモテモテなんでしょう?わざわざモデルしなくてもよかったんじゃないかなって思って」
横を見ると、佐久間は軽く笑っている。その笑顔は明るいのに、目の奥はどこか探るように真剣だった。
「……会いたい人がいたんだ」
俺は隠さず、短く答えた。
「会いたい人?」
佐久間の声が一瞬だけ強く響く。
「うん。街で見かけて……その人のことが頭から離れなくなった。だからモデルやれば、どこかで会えるんじゃないかって」
「へぇ……阿部ちゃん、そういうところあるんだね」
「どういうところ?」
「一途っていうか……意外とロマンチスト?」
からかうように笑う佐久間に、俺は少し照れて視線を逸らした。
「別にロマンチストとかじゃない。ただ……どうしても会いたいって思っただけだよ」
「ふふ、なるほどね〜。阿部ちゃんの真面目さが出てるよ」
そう言いながら、佐久間は手に持っていたペットボトルを回す。明るく軽口を叩いているのに、その指先の動きがどこか落ち着きなく見えた。
「でもさ、阿部ちゃんが会いたいって言ってるその人……どんな人なの?」
「……スクリーンで見たモデル。綺麗だった。普通の”可愛い”とか”美人”っていうのとは違って、目が離せなかったんだ」
「……そうなんだ」
佐久間は笑顔を崩さずに相槌を打つ。けれど、その笑みはほんの少し硬いように感じた。
「俺、今まで”本気の恋”ってしたことなかったんだ。だからあの時、やっと分かったんだと思う。……これが恋なんだって」
「……」
「だから俺、絶対に会いたいんだ。その人に」
まっすぐに言葉を口にした俺を、佐久間は黙って見ていた。
「なぁ、阿部ちゃん」
不意に佐久間が振り返る。街灯の光が彼の横顔を照らし、その笑みは軽くて、どこか探るようでもあった。
「そのスクリーンに映ってた人ってさ、なんのモデルだったの?」
「え?」
「ほら、CMだったのか、雑誌の宣伝だったのか分からないけど。もしかしたら、うちの事務所の人かもしれないよ。本当に出会えるかもね〜って思って」
軽い調子で投げられたその言葉に、胸が一瞬熱くなった。
「……そうだったら、いいな」
俺は言葉を選びながら口を開く。
「大きなスクリーンに流れてた広告で、ブランド名は出てたけど、モデルの名前はどこにもなかったんだ。ネットで探しても記事もプロフィールもなくて……」
言いながら、自分の中のもどかしさが蘇る。
「だから、詳細は不明のモデルなんだよ」
その瞬間、佐久間の動きがわずかに止まった。
「……そ、そうなんだ」
笑顔を作りながら返す声は、妙に引きつっていた。
「詳細不明のモデルか〜……それは、見つけるの苦労するね」
軽口のように聞こえたけど、その声の奥にほんの少し動揺が混じっているように感じられた。何かを隠している、あるいは触れてほしくないことに触れてしまった──そんな違和感があった。
「佐久間?」
「ん?なに?」
「いや……なんか、反応が変だった」
「はは、気のせいだって。俺が知らないモデルのこと言われても、どう返していいか分かんないだけ」
そう言って笑い飛ばす佐久間の表情は、どこかぎこちなかった。普段なら自然体で人を笑わせる彼が、今だけはほんの少し硬い。俺は首を傾げながらも、それ以上追及することはしなかった。
「……でもね」
俺は立ち止まって、夜空を仰いだ。
「絶対に見つけ出すって、もう決めてるんだ」
胸の奥に燃えるような決意を言葉にすると、佐久間は少しだけ目を見開いた。
「阿部ちゃん……」
「俺、本気なんだ。名前も、素性も、何も分からなくても。あの日見た瞬間から、もう止まらないんだ」
胸の奥にずっと燻っていた想いを、はじめて言葉にした瞬間だった。口にしたことで、自分でも驚くくらい気持ちが澄んでいく。まるで、心の奥で迷っていたものがすっと晴れたようだった。
「……そうなんだ」
佐久間は小さく笑って答えた。けれどその笑顔は、ほんの少しだけ陰を帯びているように見えた。
「うん」俺は頷く。
「俺、ずっと本当にちゃんとした恋ってしたことなくてさ。付き合ったことはあっても、気持ちを伝えきれなくて、結局”俺じゃなくてもいいんでしょ”って言われて終わってた。けど、あの人を見た瞬間、これが初めての恋なんだって分かったんだ」
そう言いながら、俺は自然と笑っていた。言葉にして初めて気づいたけれど、自分が誰かを好きになるって、こんなにも胸が温かくなるものなんだ。今まで感じたことのない熱が、体の奥で静かに燃えている。
佐久間は黙って俺の顔を見ていた。街灯の下、その瞳の奥には複雑な色が浮かんでいるように思えた。喜んでくれているようでいて、でもどこか遠ざかっていくような、そんな表情。
「……そっか。なら、頑張って」
ようやく佐久間が口を開いた。少し掠れた声で、それでも笑顔を保っている。
「ありがとう」俺は素直に礼を言う。
「絶対に会って、ちゃんと想いを伝える。それまで諦めない」
「阿部ちゃんらしいね」佐久間はくすっと笑った。その笑みはどこかぎこちなかったけれど、俺は気づかないふりをした。
二人で歩く足音が、夜の静けさに響いていく。住宅街の角に差しかかったところで、佐久間が立ち止まった。
「ここからは別の道だね。俺ん家あっちだから」
「そっか」
「今日はおつかれ。……また現場でね」
「うん。じゃあ、また」
言葉を交わして、俺たちはそれぞれの帰り道へ歩き出した。背中に残る佐久間の気配が、ふと振り返りたくなるほど大きく感じる。
俺は、自分の決意を疑わない。あの日、スクリーンに映った彼女の笑顔。それは俺の人生を変えるだけの力を持っていた。
初めての恋。まだ何も知らない恋。
それでも必ず叶えると、心の底から信じていた。
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作者名「木結」(雪だるまアイコン)でご検索ください。
※おまけ小説(18歳以上推奨)も収録しております。
閲覧の際は、年齢とご体調に応じてご自身のご判断でご覧ください。
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