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番外編【その後】
アメリカに来て3カ月が経った頃、私は寝込んでいた。
最初は気が張っていたせいか、順調そうだった私も少し落ち着いてきた頃にいきなり体調不良で高熱を出してしまった。
ロサンゼルス市内からだいぶ離れた郊外の住宅街にある千秋さんの実家。
そこで母親の千夏さんにお世話になっている。
新居を見つけてそこで千秋さんと暮らす予定だったのだけど、引っ越し間近で私が寝込んでしまったせいでいまだ彼の実家にいた。
この三カ月、いろんなことがあった。
私は語学学校に通ってある程度の会話ができるようになり、仕事も紹介してもらってやっと自分の足で立って歩けると思ったのに、結局千秋さん家族にいまだお世話してもらっている状況だ。
しかも、熱が出て3日経つのになかなか落ち着かない。
薬で解熱したかと思えば、夜中になるとまた熱が上がって、食欲もなくてベッドから出られなかった。
なんか、まわりに迷惑ばっかりかけているなあと思って、それが心苦しかった。
「はぁい、サナ! 具合はどう?」
やたら明るいこの女性は千秋さんの母の千夏さんだ。
この家には千夏さんと彼氏のマイケルがふたりで暮らしている。
「まだ少し、熱いです」
「うーん、下がらないね。スープ食べられる?」
「……はい」
千夏さんは毎日私が何を食べられるか訊いてくれて、私のために食事を用意してくれる。正直どうしてここまでしてくれるのか私には理解できなかった。
だって、姑なのに……。
私はふと優斗母のことを思い出し、急いでその記憶を振り切った。
「味付けは薄めにしたの。フルーツはここに置いておくから食べたいときにね。そうだ。トイレは大丈夫?」
「……大丈夫です」
「これ、薬ね。マイクがこれがよく効くって」
「ありがとうございます」
千夏さんの彼氏のマイケル(呼び名はマイク)は医者だ。おかげで私の様子をよく見てくれる。
「じゃあ、サナ。ゆっくり寝て。また様子見に来るからね。ほしいものがあったら何でも言って」
「ありがとうございます」
千夏さんが出ていったあと、私は目を閉じた。
熱のせいかやたら昔の記憶がよみがえる。
『あんた、また熱を出したの? いい加減にして。これ以上お母さんを困らせないでちょうだい』
高熱のせいか精神的にもつらくなって、静かに涙がこぼれた。
私が熱を出すと母は機嫌が悪くなった。幼い頃は祖母が見てくれていたけど、祖母が病気がちになると母が面倒を見なければならなくなり、パートを休むことになるから給料が減ると愚痴っていた。
『あんたのせいで世話する人間が増えて困るわ。せめて迷惑かけないようにしてちょうだい』
子どもの頃の私はお母さんにとって邪魔でしかない存在だった。
なんで生まれてきちゃったんだろうって何回も思った。
私が生まれてこなければ、お母さんはこんなに怒ることなかったんだろうなって。
兄が風邪を引いたときには母はものすごく心配していた。ずっと兄に付きっきりで、私の夕飯はなかった。遅く帰宅した父がカップラーメンに湯を入れて、私に分け与えてくれた。
実はあのとき、父と一緒にカップラーメンをふたりで食べたことはちょっとだけいい思い出だった。
兄の部屋にずっといる母に、いろいろ愚痴を言われなくて済むから。
アメリカに来てから毎日がめまぐるしくて、昔のことなんて気にならなかったのに、寝込んだら急にいろんなことを思い出して心が苦しかった。
こんな状態になって余計に、私は気になっていることがある。
私は母親になれるのだろうか?
この先もし子どもができてもちゃんと愛してあげられるのだろうか。
「紗那」
頬にひやりとした感触があって私は目が覚めた。
目を開けると千秋さんの顔があって、彼が濡れたタオルで私の汗を拭きとってくれていた。
「千秋さん、おかえり」
「うん。具合はどう?」
「まだ少し……」
「慣れない土地で無理したせいかな」
「そんなことないよ」
「でも、結構振り回されただろ?」
「……うん」
千夏さんはこの3カ月間、私にいろんなところを案内してくれた。ショッピングモールだけでなくディ〇ニーランドやユニ〇ーサルハリウッドやビバリーヒルズや少し遠出してラスベガスのカジノにも行ったし国境越えてメキシコまで連れていかれた。
「紗那も付き合うことないのに」
「ふふっ、だって楽しいんだもん」
だって母は遊園地に連れていってくれてもすぐ機嫌が悪くなるから、ちっとも楽しくなかったんだ。家族で出かけるたびに母の機嫌をうかがいながら、彼女が不機嫌にならないように気を使わきゃいけなかったし、家族のお出かけなんてストレスでしかなかった。
この3カ月、千夏さんやマイケルと一緒に出かけるのが楽しすぎて、私はちょっと調子に乗ってしまったのかもしれない。
「何か食べたいものある? 果物を切ってあげようか?」
丸テーブルに置いてあるオレンジやリンゴやブドウなどが盛りつけられた籠を見て、千秋さんが言った。
「今は大丈夫。さっき千夏さんのスープ飲んだの」
「あれ、美味いだろ。俺も小さい頃よく風邪のときに飲んだな」
「作り方知りたいな」
「治ったら俺が教えてあげるよ」
「うん」
千秋さんが私の額に手を載せた。私の頭が熱すぎるせいか、彼の手は少しひんやりして気持ちよかった。
「さっきまで、すごく寂しかったんだけど……今は平気」
「寂しいならもう少し様子を見に来てもらって」
「ううん、違うの。熱のせいか昔の夢をよく見るの」
もしかしたら、今この場にいるのが夢なんじゃないかって。
目が覚めたら誰もいなくて、千秋さんとの出会いも私の都合のいい夢で、私はずっとひとりぼっちでいるんじゃないかって。
ここにいるみんなが優しすぎるから、こんな都合のいいことなんてないって、昔の私が訴えているみたいで、目が覚めたらいつも涙が出ている。
「千秋さん、これ現実だよね? あなたは私の目の前にいるよね?」
「ああ、いるよ。俺は絶対に紗那のそばを離れないから大丈夫」
千秋さんはそう言って微笑んで、私の頭を撫でてくれた。
たったそれだけで私は安堵して、ゆるやかに寝入ってしまった。
*
お母さん、つらい。
苦しいよ。お腹がすいたよ。
喉がカラカラなの。
お水が飲みたいの。
『あなたはどうしてお母さんを困らせるの?』
そんなつもりはないのに。
『風邪だってお母さんの気を引きたいだけでしょ?』
そんな……。
『お兄ちゃんが大変なときに、あんたはいつもそうやって邪魔するんだから』
そうだよ。
私はお母さんに振り向いてほしいの。
大丈夫? って心配してほしいの。
お兄ちゃんみたいに、そばについててほしいの。
テストでいい点とったらよくできたねって褒めてほしいの。
運動会で1位になったらよく頑張ったねって褒めてほしいの。
どうしてどれをやっても可愛げがないなんて言うの?
私はどうすればお母さんに褒めてもらえるの?
*
「サナ……サナ、サナだいじょーぶ?」
「えっ……」
悪夢から目が覚めたら千夏さんが私の顔を覗き込んでいた。私は汗びっしょりで、寝間着がひやりとしていた。
「サナ、うなされてた。どこか苦しい?」
「えっと、大丈夫、です……」
「かわいそうに、つらいでしょ」
千夏さんが私の頭を撫でてくれた。その瞬間、なぜか私の感情の塊が雪崩みたいに崩れて、ぼろぼろと涙がこぼれてしまった。
「あらあら、どうしたの?」
「ひっ、く……ごめ、なさい」
「だいじょーぶよ、サナ。ずっとついてるからね」
千夏さんは私の頭を撫でながら優しく微笑んでくれる。
私が今までずっとほしかったものを彼女は与えてくれる。
どうして?
理由がわからない。
だから私は泣きながら彼女に訊ねた。
「どうして、そこまで、してくれるんですか?」
すると彼女は笑顔で答えた。
「サナはファミリーだから。大事な娘が苦しんでいるのに、他に理由なんかないわ」
大事な娘だなんて、お母さんに言われたことない。
千夏さんの言葉は私にとってあまりに意外なもので、同時に深く胸の奥に刺さるものだった。
「千秋から聞いたわ。サナ、苦労したのね。でも、ここではアタシもマイクも千秋もあなたの家族よ。みんな、あなたのことを大切に思ってるわ」
「ありがとう、ございます」
「少し食べられる?」
「はい」
私は体を起こして、千夏さんが作ってくれたお粥を食べた。お粥に塩は入っていなくて代わりに漬物の塩加減がちょうどよく味に沁みて、なんだか懐かしい気分になった。
千夏さんは私が食べているあいだ、千秋さんの子どもの頃の話をしてくれた。いたずら好きで頭がよくて、うまく立ち回るので、大人もたじろぐほどだったとか。
「千秋はねー、反抗期がすごかったのよ」
「え? ほんとですか?」
「14のときに半年くらいかな。ろくに口利いてもらえなかったの」
「そうなんですか」
信じられない。あの千秋さんにそんな時期があったなんて。
「でも、マイクとは話すのよ。あの子」
千夏さんは眉をへの字にしてため息をついた。
マイケルとは千秋さんが10歳の頃に友人を通して知り合ったらしい。千夏さんが彼と付き合うようになったきっかけは千秋さんが懐いたからだという。
「父親がほしかったんだろうなって思う。けど、こればっかりはね。親の都合で振り回される子どもが一番可哀想なんだけど、アタシにはその(父親がいない)理由を千秋に言えなくてね」
実は千秋さんは自分で調べて知っている、ということを千夏さんはご存じなのだろうか。
ということを私の口からは到底言えないけれど。
「あの子は家族をとても恋しがっているから、あなたのことを真面目にずっと大切にすると思うの。親バカでごめんね」
「いいえ。私もそう思います」
千秋さんは外に飲みに行ったり友人知人と遊びに行ったりすることがなく、仕事が終わったら直帰して、休日はずっと私のそばにいる。
けれど、私のやりたいことは全部やらせてくれる。
ここに来て彼はずっと一緒にいるのに、窮屈に感じたり束縛されている感覚はまるでなかった。
千夏さんも必要以上に私に干渉したりしない。
すっごくお世話好きだけど、適度な距離感を保ってくれて、それが本当にありがたい。
嫁はこうしなきゃいけないとか、そんな考えは月見里家にはなかった。
「ぜんぶ食べられたね。サナ、偉い」
千夏さんは満面の笑みでそう言った。
私はなんだか照れくさくなってしまった。
「千夏さん、お母さんみたい」
つい嬉しくてそんなことをこぼしてしまった。
すると千夏さんは目を丸くして言った。
「あら、そうよ。アタシはもうサナのママでしょ」
そう言われて、胸がぎゅっと締めつけられて、私はふたたび目頭が熱くなった。
やばい。涙腺が弱すぎる。熱のせいなのかな。
涙がこぼれないように顔を上げたら、千夏さんが私の手をぎゅっと握ってくれた。
「だいじょーぶよ、サナ。何も心配いらないわ」
ああ、だめだ。我慢できない。
私の目からふたたび涙がこぼれ落ちた。
もし子どもができたら、私はこんなお母さんになりたいなって、素直に思えた。