日和美が仕事へ行って、不破は記憶喪失になって初めて。 全くのひとりになった。
数日間日和美と暮らしてみて分かったのは、彼女がとても家庭的な女性であるということ。
何の影響か、妙に夢見がちなところがあって、時折びっくりするくらい突飛な発言をすること。
面倒見がいいあまり、やたら気前が良過ぎる嫌いがあること。
どうやら自分のことを気に入ってくれていそうなこと。
それから――。
そこまで思いを巡らせてから、不破は日和美を見送った際、彼女を安心させるために鞄から取り出して見せたアルバムに視線を落とした。
ポリプロピレン製の半透明な表紙が付いたL版サイズのアルバムには、小口側にペッチン留めのスナップボタンが付いていて閉じられるようになっていた。
ポケットは全部で十ポケットあって、写真を裏合わせにして二枚ずつポケットに入れていけば、計二十枚ほど収められる仕様だ。
不破は裏に書いたメモ書きも見たいので、ひとつのポケットにつき一枚ずつしか収納する予定はないのだが、そもそも今はまだ中へ入れられる写真自体が一葉しかない。
スナップボタンを外して写真を眺めて、日和美の顔の輪郭をそっと指先でなぞる。
(可愛いな)
ショートカットが似合う日和美は、目がクリクリっと大きなパッチリ二重さんだ。
化粧は控えめだが、元々の造形がいいのでむしろその方が似合っていて清楚なイメージ。
お風呂上がりにもあまり抵抗なく不破へスッピンを見せてくれているところを鑑みるに、本人にも化粧で〝化けている〟と言う自覚はないらしい。
(素顔も可愛かったし……)
少なくとも化粧前と化粧後で、劇的に印象が変わるタイプではないみたいだった。
身長も小さめで小動物みたいに愛らしい雰囲気の日和美は、少なくとも今の不破から見るとかなり好みのタイプに分類される。
(以前の僕の趣味嗜好は分かんないけど)
そんなことを思いながら写真をめくって、裏に自分が書いたメモ書きに視線を落とした不破だ。
これ、途中までは日和美の前で書いていた文言だけど、最後の一文だけは何だか本人には見られてはいけない気がして彼女が居ないところで後からこっそり書き加えた。
――『・ぼくに何かかくしごとがあるみたい?』
〝ぼくに何か〟の後だけちょっとだけ文字の調子が変わって見えるのは、時間を置いて付け足したからだろう。
不破は小さく吐息を落とすと、日和美が「絶対に入らないで!」と念を押しまくった和室への扉を眺めた。
あんなに念押しされたら、逆に「開けてみて?」と誘われているのと変わらないではないか。
日和美は何でもかんでも割とオープンにするタイプだと思う。
なのに、不破がこの部屋に入ることだけは頑なに拒絶するのだ。気にならないわけがない。
何より。
言われた時には日和美に心配をかけたくなくて、素知らぬふりを決め込んだけれど、彼女が教えてくれた「ルティ」という名が胸の奥、チクチクとした痛みと共に引っかかっているのも事実で。
自分が何も持たずに外をうろついていた事と、ルティとの間にはきっと何か接点があった気さえしてしまっている。
もしかしたら、この扉の先にもっとヒントとなるものがあるかも知れない。
別に不破だって日和美を疑っているわけではない。
あの日布団が自分の上に降ってきたのは、きっとたまたま。偶然のはずだ。
だからここを開けたからと言って、実はあれは仕組まれていたことで……的な日和美の悪だくみの証拠が隠されていてショックを受けることも、ルティについての秘密が隠されていて驚かされることも恐らくはないのだろう。
(日和美さんはそんな大それたことが出来る人じゃないでしょうし)
別に彼女のことを見くびっているわけではないし、そもそも山中日和美という女性の何を知っているんだ?と聞かれたら言葉に詰まってしまうのだけれど。
でも不破にはどうしても日和美がそんなことが出来るような策士には見えないのだ。
それよりも――。
毎日朝晩繰り広げられる日和美の〝ヨタヨタ劇場〟の方が問題ありな気もして。
六畳程度しかないリビングは、テレビやローテーブルなども置かれているから、不破が使っている布団を置きっぱなしにしておくには手狭だ。
だから布団は、日中使われていない日和美の寝室に運ぶのが定石となっているのだけれど。
毎度毎度朝晩、自分が使っている布団をこの和室とリビングの境目付近で日和美に受け渡しをしている不破は、リビング側へ布団を持ち出してくるとき、また布団を和室に引き込んでいくときの日和美のヨタヨタぶりが気になって仕方がないのだ。
もしも彼女が抱えている秘密が、不破的に大したことじゃなかったら。
それとなくそう示唆することで、日和美の杞憂を取り払うことが出来たなら。
彼女の労力を肩代わりしてあげられるようになるんじゃないだろうか。
そんな風に思って。
(ごめんなさい。日和美さん)
不破は心の中で日和美に謝罪して、禁断の扉を開いた。
***
「――っ!」
目の前に広がる光景に、不破は思わず息を呑む。
(ピンクだ……)
最初に思ったのはそれ。
壁一面を占めた本棚を埋め尽くさんばかりに、これでもか!と詰まっている本たちの背表紙は、どれもこれも基本的に目にまぶしいほどの鮮やかなショッキングピンクで。
そこに踊る文字も茨みたいでインパクトが強かった。
入り口を入ってすぐの所。
部屋の片隅に不破が使わせてもらっている布団が綺麗に畳まれて置かれているのに対し、日和美が寝起きしていると思しき布団は敷きっぱなし。
ただし、掛け布団が綺麗に畳まれて足元に置かれているのを見るに、自堕落な人間の万年床とは一線を画しているのは明白だった。
不破は日和美が使っている布団を踏まないよう気を付けながら、目にも鮮やかな本たちが並ぶ本棚に近付いた。
その中の一冊を手に取ってパラパラとページをめくって。
エッチなシーンばかり、狙ったように挿絵が入っているその本を手に、不破は真剣な顔で書かれた文章を斜め読みする――。
そうして。
いつしか、不破は本を手にしたまま、ポロポロと泣いていた。
***
「ただいま戻りました!」
父と二人暮らしをしていた実家でも、しょっちゅう預けられていた祖父母宅でも、こんなに丁寧な〝ただいま〟なんて言ったことのない日和美だ。
だけどアパートで王子様みたいにキラキラした不破が待って居てくれると思うと嬉しくて、何だか自然と浮き足立った挨拶になっていた。
とは言え、今日は不破と暮らし始めて初めて別行動を取ったのだ。
玄関扉を開けるまで、もしも不破が居なくなっていたらどうしよう?とか不安も感じていた日和美だったけれど。
土間に自分のものよりはるかに大きな男性ものの靴がちゃんとあるのをチラ見して、ホッと胸を撫でおろした。
「日和美さん、お帰りなさい」
オマケに日和美の声に呼応して、奥の方から不破がヒョコッと顔を覗かせてくれたものだからたまらない。
不破の顔を見るなり、安堵と嬉しさから自然と口元がほころんでしまった。
お蔭様で、初出勤で気疲れした気持ちなんて綺麗さっぱり吹っ飛んでいってしまう。
「お仕事、如何でしたか?」
不破には今日が新卒採用の社会人デビューの日で、勤め先は全国展開もされている大手書店『三つ葉書店学園町店』だと言うことも話してある。
何もないとは思うけれど、何か緊急の用件が発生した時、日和美の職場を明かしておくことは大切なことに思えたからだ。
不破のため新しく契約した携帯電話の連絡先には、日和美の携帯番号とともに、しっかり三つ葉書店の電話番号も登録しておいた。
今は日和美の番号と、日和美の勤め先の二つしか入っていない不破の携帯電話だけれど、もし彼が仕事を始めたりしたならば、少しずつ新規連絡先が増えていくことだろう。
それは至極自然なことなのに、そう思ったらちょっぴり寂しくなって。
「日和美さん?」
それで先の不破からの初出勤の質問への答えが遅れて、彼に小首を傾げられてしまう。
日和美はフルフルと頭を振って気持ちを切り替えるとニッコリ笑って。
「なんとっ! わたくし、ティーンズラブコーナーとボーイズラブコーナーを任されることになりました!」
わーいと小声で付け加えてパチパチと手を叩いて見せたら、不破が驚いたように瞳を見開いた。
基本的には接客などはどこの部門担当などといったことなんて関係なく担わないといけないのだが、三つ葉書店学園町店では本の発注や売り場作り――ポップの作成や書架内のレイアウト――などには、社員ごとに大まかな割り当てジャンルが決められている。
よその書店や同系列の支店がどうなっているのかは下っ端の日和美には分からないけれど、少なくとも日和美の勤める学園町店はそう言うスタイルを採用しているらしい。
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