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「じゃあ、鼠たちは怒り心頭ですね」クオルは机に向かって書き物をしながら鳥籠の中のレモニカに向けて話す。「レモニカさんを助け出すために一族皆で協力して私やボーニスさんに立ち向かったのに、レモニカさんは全てを棒に振ったわけでしょう?」
不思議で派手で、実は鼠に支配されている工房馬車はがたごとと揺れる。御者台からの指示もなく、どこかへ向かってひた走る。
レモニカはクオルの言葉をしっかりと耳に入れつつも、返事をせずにその言葉を頭の中で反芻していた。確かにクオルの言う通りで、きっと彼らは怒っているだろう。あれ以来鼠一匹姿を見せない。
「禁忌文字の光を優先したのはなぜです?」目の下に隈を浮かべてクオルは毛羽立った羽筆で羊皮紙にひたすら書きつけ続けている。「位置を知らせて助けを呼ぶため? いや、レモニカさんはあのまま何もしなければ逃げられていた。つまり文字を光らせることは重要な目的であったが、しかし私が離れてから光らせるわけにはいかなかった、ということですね。ああ、そうです。衣の光とレモニカさんが光らせた文字の二つは、遠く離れたエイカさんたちからすれば見分けがつかないから、ですね。エイカさんたちがどちらの光に向かえばいいか分からなくなってしまう、と。その上で自分が助かる方法を模索した結果の折衷案ってところです?」
今日のクオルは冴えている。ほとんど正解だ。
クオルは小馬鹿にするように笑いながら言う。「鼠たちにその説明をしても理解できないでしょうし、いよいよレモニカさんの生きる道はエイカさんたち頼りですね。慰めになるか分かりませんが、私も同じ立場だったらそのようにしますよ。もっと上手くやれるとは思いますけど」
その時、クオルが身に纏う魔導書の衣の裾の隙間から太陽が昇ってきたかのように激しい白光が溢れ出す。クオルも鼠の姿のレモニカも慌てて立ち上がり、周囲を見渡した。遠い距離も地平線も工房馬車の壁も越えて届くはずのもう一つの光を求めて目を凝らす。
そして二人同時に、その結果に驚く。魔導書の衣を除けば、他に光は二つあった。真南と西北西、二方向から禁忌文字の光が届いたのだった。
レモニカの心は甘いお菓子にありつけた子供のように飛び跳ねた。前にクオルのそばで元型文字を完成させたので、ユカリたちの居場所がばれることなく、ユカリたちにクオルの居場所を知らせることができた。その狙いをユカリたちは汲んでくれて、二か所で同時に光らせるという策を弄してくれたのだ。
「複数の地点で光らせることもできたんです?」とクオルは一人呟き、魔導書の衣の裏地を確認している。「北東へ誘導したい、とそういうことでしょうか。まあ、元々北東へ向かってるんですけどね」
レモニカには負け惜しみに聞こえたが、それに対して何も言うことなく、じっと黙ってクオルの独り言を聞いていた。
「あるいは単に二手に分かれた? にしては西北西への移動が速すぎます。馬、にしても速い。好きな場所で光らせられる? なら今までのことは何だったのか。はったりです?」
クオルの言う通り、ユカリたちはおそらく二手に分かれたのだろう、とレモニカは推測する。しかしクオルからすればそもそも光らせ方が分からない以上、自分たちのいる場所以外でも光らせられるという可能性についても考えなくてはならない。その場でしか光らせられない、という思い込みを幻視することになる。そしてクオルはコドーズの毛長馬について知っているはずだが、思い至っていない。
レモニカが文字を光らせて以降、ユカリとベルニージュはおそらく時間を決めて交互に寝起きして光を見逃さないようにしているだろう。しかしクオルはそうもいかない。目の下の隈がその証だ。
誘導されているらしいサンヴィアの北東に位置するトンド王国はユカリたちの目的地でもあり、焚書官たちの目的地でもあることをレモニカは覚えていた。とするとクオルの匿っているという大罪人メヴュラツィエはトンド王国の領域にいるということだろうか。
「近づいてきましたね」とクオルが小さく呟く。
レモニカの見た限り、禁忌文字の光自体はむしろ前よりも遠ざかっている。近づいてきたのはこの馬車の目的地だ。
レモニカはここ数日と同様に、しかしそれ以上に強い気持ちで、自分に何かできないかと考える。最も理想的なのは魔導書の衣を奪っての脱出だが、鼠の手助けさえ得られないいまやそれはとても難しい。それでも、何かユカリたちにとって得難いものを携えて逃げたい。
ようやく太陽が姿を見せたサンヴィアの冬の遅い朝、工房馬車は陽の光の疎らな淡檜の密に茂る森へと入る。白い樹皮と雪が相まって、窓の外の景色は色彩に欠けている。まるで積雪の下、雪の壁を掻き分けて突き進んでいるかのようだ。時折馬車から逃げていく鹿や兎のような動物以外に動くものは見えない。
雪深い森を分け入り、針葉の木漏れ日すらも届かないずっと深い所まできて、ようやく工房馬車は速度を落とし始める。レモニカがじっと身構えて、鼠の小さな毛深い耳をそばだてていると、車輪の軋む耳障りな音の他にクオルが階段を上って来る音が聞こえてくる。ただの足音ではない。鼻歌に乗せて小気味よく踏み鳴らす不吉な足音だ。
魔導書の茜色の衣を翻し、クオルが姿を見せる。ささやかな笑みを浮かべて、慈悲深い者であるかのような赤茶色の瞳をレモニカに向ける。
「色々な歌をご存じですね」とレモニカは呟く。「それは何という歌ですか?」
クオルはご機嫌な調子で答える。「『羊の川』です。調べが不思議なら題名も不思議でしょう? ミーチオンのわらべ歌で、正直者を讃える歌です」
「まあ、正直には違いありませんわね、クオルさんは」とレモニカは嫌味っぽく言う。
「ええ、正直に生きてますよ、私は。したいことをしなきゃ生きてる意味なんてないと思いません?」
「わたくしのしたいこと、させてもらえますの?」
クオルは大口を開けて笑う。らしくない笑い方をされてレモニカは憮然とする。
「わたくし何かおかしいことを言いまして?」
クオルは口の端を上げて顔を傾けて馬鹿にするように言う。「レモニカさんはしたいことなんてないでしょう?」
レモニカが何かを言い返そうとする前にクオルは言い添える。
「でも私、レモニカさんがこれから何をするのか分かります。予言してみせましょうか? 貴女がこれから何をするのか」
「貴女にわたくしの何が分かるというのですか」
「分かります。レモニカさん。貴女はね。これから閉じこもるんです」
鼠のレモニカは鳥籠の端へと退いて言う。「いったいわたくしに何をするつもりで……」
「違います違います」クオルは大げさに首を振る。「これは私の元から逃げ出したと仮定した話です」
レモニカは不満げに言う。「だとしても何を根拠に……」
「レモニカさん。貴女、逃げ出したじゃないですか」
「当然です。あれ以上、コドーズの所なんかに!」
今度はゆっくりと首を振ってクオルは言い聞かせるように言う。「その前もですよ。貴女はある場所に、恐らく生家に閉じこもっていた。そのような呪いの身では当然でしょう。そして何かをきっかけに逃げ出した。その呪いにまつわる罪悪感ですかね。貴女は良い子ですし」
クオルに言い当てられ、レモニカは押し黙る。
「でも、結局、再び貴女は閉じこもった。コドーズの見世物小屋に。そしてそこから逃げ出した貴女が行き着く場所はやはり閉じ籠れる場所に違いありません」
「それは、でも」レモニカは鼠の瞳に涙を浮かべ、しかし流さないように堪える。「このような身では……」
「それが貴女の言い訳なんですね」
とうとう鼠の小さな瞳から小さな涙が零れ落ちた。
「別に責めている訳ではないんですよ」とクオルは言う。「結局のところ、誰だって同じです。自分は自分。他の誰でもありません。満足な人生を送れているならともかく、そうでないならただ嘆き続けるしかありません。私たちはみな自分という檻に囚われているのですから。レモニカさん。いつだったか私、言いましたよね。私たちは似た者同士。お互いに助け合えるって。私も生家から逃げてきた身なのです。でも、私も貴方も自分の檻からは逃げられないでいる」
レモニカは震える声で、しかし毅然と答える。「貴女がわたくしを助けられるとしても、誰かを犠牲にするつもりなどありませんわ」
「世界が変わるんです。犠牲など些細なものです」
クオルはそう言うとレモニカの鳥籠を外して手に提げ、踊るように跳ねるように工房馬車を出、凍り付いた空気に身を晒す。