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何も楽しいことのない古い時代から吹きつけてきたような冷たい風に晒されて、レモニカ鼠は体を震わせる。瞼を開いていると眼球まで凍り付いてしまいそうだが、レモニカは必死に辺りの様子を確認する。濡れた雪、白い木々、凍り付いた空、暖かそうな恰好のクオル。確かに昼間であるはずなのに、ここの太陽は紗に覆われたように希薄だ。
そして森の中に堂々と佇む奇妙な出で立ちの館が現れる。下半分は色褪せつつも古き時代には世に満ちていた威厳を備えた石造りだが、上半分は木や煉瓦、膠泥で何とか体を成したちぐはぐな修理がなされている。それは、まだ人に知られていないこの地の魔性でさえ人を呪うに至った侮辱だった。積層した歴史に埋もれて忘れられた遺構が見出されたは良いが、このように醜く補われて往年の姿を失ったことに、人の目に映らない者たちは平静を失っていた。雪の妖精はその狼藉に憤慨し、地霊はその不敬に恐怖し、かつて神々の寵愛を受けた《追憶》は静かに涙を流していた。そして《時》に全て持ち去られてしまった輝かしい去にし方を讃える歌をうたった。
クオルは躊躇うことなく敬意を踏みつけて、館の扉を破るように開き、塞ぐように閉める。扉の奥は真っ暗で、レモニカは自分の小さな前足すら見失ってしまう。それでもクオルは迷うことなく暗闇を突っ切って、レモニカの入る鳥籠を乱暴に運ぶ。
酷い臭いがした。目が黴びて鼻が腐り落ちて肺が溶けてしまいそうな悪臭だ。クオルは臭いに構わず進んでいき、嫌な空気の薄まることのないどこかに鳥籠を置いた。レモニカの涙に濡れた目はまだ暗闇にも慣れていない。
クオルは歌をうたう。古くからサンヴィアに伝わる朝へ感謝する歌にいくつかの呪文を混ぜる。すると一斉に蝋燭の火が灯り、暗闇に隠されていた恐ろしい実態が引きずり出される。すいぶんと明るくなったがそれでもまだ暗がりは残っている。レモニカはぐるりと周囲を見渡した。
そこは広間であり、館は廃墟だ。改築された時代さえ、遥か遠くへ過ぎ去っている。何もかもが時に曝され押し流されて、朽ちて錆びて痛んでいる。床が抜け、壁はひび割れ、柱は傾き、天井は何度か無くなったようだ。無味乾燥な建材で修理し続けたようで、調和の欠片もない継ぎ接ぎになっている。そのような館にクオルは様々な魔法の品々を運び込んで実験室としているらしい。
まるで劇場だ。三階までの吹き抜けはいくつもの桟敷に囲まれているかのようで、中央には円形の舞台。そこがクオルの作業場所だ。鳥籠はそのそばの台か何かに乗せられていて、クオルとほとんど同じ目の高さにある。そして観客席にはいくつもの檻、檻、檻。人も獣もどちらでもない者もいる。生きているのか死んでいるのかさえ分からない姿だが、蝋燭が広間を隅々まで照らすと、呻き声が上がり始める。呟く声があちこちから聞こえる。コドーズの見世物小屋よりも格段に酷い地獄のような景色だ。
「あなたは……、あなたとあなたの師匠メヴュラツィエは、救済機構から逃げた今もこんなことをしているのですね」
クオルは馬鹿にするように小さく笑う。「おかしなことを言いますね。こんなことをするために逃げてきたんです」
レモニカは目をそらせない景色から目をそらして言う。「あなたはずっと留守にしていたはずです。彼らの世話は誰が?」
「そこら辺にいないです? ある小人の支族を雇ってます。彼らはいつも視界の外にいるので中々交流が面倒なんです」
レモニカは散らかった周囲に目を凝らす。確かに時折、視界の端で小さな影が動いたのが見えた。鼠よりは大きいが猫よりは小さいようだ。しかし中々視界の中心にとらえられない。
クオルと目が合う。その好奇の視線に気づき、レモニカは異常に気づく。己の姿の変化には慣れたはずだが、今までに経験した中でも最も驚く。
その姿は人間の赤子だ。それも、生まれる前の姿だとしてもおかしくない未熟児だ。
なぜこのような姿になったのか、ぼやけた目でクオルに訴えかけるが、その悪辣な魔法使いは無関心な表情で小さなため息をつき、作業を始めた。
レモニカは困惑する。クオルが突然赤子を嫌いになったにしても、きっかけというものがあるはずだ。この数日を共に過ごした限り、赤子にまつわる出来事などなかったはずだ。
レモニカの不安と不快をよそにクオルはいつもの不思議な響きの鼻歌をうたい、舌を噛みそうな呪文を唱え、毒々しい色の液体やひとりでに動く粉末を混ぜ合わせ、机の上にたくさん用意された粘土板に刻み込んでいる。
クオルはいつも隙だらけだが、レモニカはその隙を掻い潜ることさえできない。今となっては鼠の方がまだ何とかなりそうなもので、赤子のレモニカは力なく鳥籠の格子を握って、周囲に目を配った。
その時、影が、柱から檻の陰へ素早く移動するのをレモニカは見逃さなかった。クオルは実験に夢中で見逃した。そもそも背を向けている。
初めはクオルが雇った小人の召使かと思ったレモニカだが、すぐに間違いだと気づく。小人の大きさではない。ユカリかベルニージュだろうか、と安易な希望にすがろうとして、レモニカは己を戒める。
誰だか分からないが、クオルから隠れる必要があるのならばクオルの敵だろう。敵の敵は味方、かもしれない。仮にレモニカにとっても敵であったとしても、鼠か赤子以外に変身できる好機かもしれない。
薄暗さに加えて、たくさんの檻が物陰となって、侵入者を手助けする。陰から陰へ、音もなく素早く移動する身のこなしを見るにユカリやベルニージュでないことは確かだ。
クオルは気づいていないが、檻の中に囚われた者たちは気づいている。多くは黙って見過ごしていたが、中には吠えたてたり、呻いたりする者がいた。
レモニカはクオルが騒ぎに気づかないように話しかける。「いったい何の実験をしているのですか?」
「魂の変質が肉体に及ぼす影響について、です」
クオルの見つめる先には、様々な計器のついた口のない硝子の球体がある。中には、どうやって入れたのか人の形の影が揺らめいている。
「その影が魂なのですか? だとしたらわたくし初めて見ました」
クオルがじろりとレモニカの方へ視線を向ける。「へえ、見えるんです? それは興味深い」
下手なことを言ってしまったとレモニカは後悔する。
クオルはレモニカを見つめて少し考え、紙と筆を手に取った。そして急かすように言う。
「どんな姿です? 色は? 形は? 定形? 不定形? 何か意志を感じますか?」
有無を言わさぬクオルの勢いに押されまいと堪え、レモニカは言葉を選ぶ。陰から陰へと移動して徐々に近づいてくる誰かのために時間を稼ぐ。
「知りたいなら取引致しましょう?」
「駄目です。レモニカさんをいまさら手放すつもりはありません」
「誰も解放しろ、なんて言ってませんわ。私はただ、知りたいのです」
自分は何を知りたいのか、レモニカは考える。何でも良いが、役立つ知識が得られるならなおのこと良い。
「聞くだけ聞きます。姿だけとはいえ、赤子を拷問するのは心苦しいですから」
唾を吐きかけるのをこらえてレモニカは問う。「メヴュラツィエさんについて聞きたいです。結局のところ、貴女はメヴュラツィエさんのために活動している、という話でしたので」
クオルは少しも考える間もなく答える。「偉大な方ですよ、先生は。賢者は世に数多かれど、彼女ほどの知の求道者は他にいません。真の研究者です。常識や倫理から逃れられない凡夫な自分が嫌になります」
「自分の子供を実験に提供している人間も大概ですよ」とレモニカは言って、クオルの下腹辺りに目をやる。
「いえいえ、私なんてまだまだです。ひよっこです」
照れ臭そうにそう言ったクオルにレモニカの心が暴れる。怒りか憎しみに似た感情がクオルを痛めつけてやりたいと叫んでいる。
「でも、私はいま赤ん坊の姿になっています。クオルさん。これは嫌悪ではなく恐怖ですか? 貴女が実験に提供した貴女のお子さんは生きていて、救済機構の元にいると以前に言っていましたね。貴女が貴女の子供に怯えているのだとすれば、それは然るべき天罰への予感では?」
「とはいえ、ひよっこの私にも、最近は先生がある程度裁量を与えてくださるようになりました」とクオルは言う。
あまりに躊躇いない返事だったので、会話が噛み合っていないことにレモニカは数瞬遅れて気づいた。
「もちろん先生の御示しになる範囲でのことですが」クオルは淡々と話し続ける。いつもの鼻歌のようではなく、書かれた文章を読み上げるように話す。「そもそも先生のお言葉は難し過ぎて、その解釈だけで時間を取られてしまいますからね。別に先生が悪いと言っているわけではありませんよ? 私の精進が足りないだけです。そもそも最近は口数が少なすぎます。たしかに知恵者は口を閉じて頭を動かすものですが、それにしたってねえ。帰ってからまだ一言も口を利いてくれませんし。もちろん先生の邪魔をするつもりは毛頭ありませんが、私だって――」
「待って! クオルさん。待ってください。ここにメヴュラツィエさんがいるんですか?」
「え?」と言ってクオルは呆けたようにレモニカを見る。「ああ! これは、うっかりしてました。そこにいては見えませんね。すみません」
何が可笑しいのかクオルは苦笑しつつレモニカの入る鳥籠を持ち上げ、作業机の方へ移動させる。しかしそちらへ移動したところで、メヴュラツィエの姿はなく、レモニカはクオルを見上げる。その焦点の定まらない視線は、レモニカの乗っていた台の方へ向けられていた。
鳥籠は、今まで檻の上に乗っていたのだと、ようやくレモニカは知る。レモニカの体は再びクオルのそばで鼠に変じていた。レモニカを赤子の姿に変えていた人物は檻の中にいる。
その檻の中には老いた女がいた。しかしあまりにみすぼらしい格好のために、実際以上に老けているように見える。髪は枯草のようにぼさぼさで、肌は乾き、垢に塗れて、ひび割れている。目は泥のように濁り、枯れ木のような細い手足は骨張っている。着ているものも元は目も綾なる薄絹だったに違いないが、今では汚れてほつれた襤褸だ。丸めた襤褸布を愛おしそうに抱いて、囁きかけていなければ、レモニカはその女を死体だと思ったことだろう。しかしその女こそがメヴュラツィエなのだという。