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「名前?」
「そう。頑なに呼ばないでしょ? 俺の名前」
思わず目を開けて彼を見上げてしまった。伸ばされた手は、テーブルの上に置かれたリモコンを取っただけで、逆に目を閉じた私の行動に首を傾げていた。
「俺の名は?」
「ちょ、ぷぷ。古い。ちょっと待って」
そういえば、彼とかあの人とか貴方とか言って、彼の前で名前を呼んだことはなかった。
「なに? 俺は昔から華怜さんに名前を呼ばれたかったんだから」
「中学の時は、名前で呼んでなかった?」
「昔の話はいいよ。辛いだろ。今の俺の名前」
「うん。一矢くん。いや、一矢さん?」
距離を保つには、さん付けの方がいいのかな。
さん付けで呼ぶと、少し不服そうだった。
「俺は華怜さんって呼ぶけど、君は呼び捨てで」
「なんで。どっちでもいいじゃん」
「じゃあ華怜。俺も華怜って呼ぶ」
先ほどまでの、私を強引に抱き寄せ安心させてくれた彼はどこにいった。
名前のことぐらいでムキになる彼は、ちょっとだけ子どもっぽい。
「まあ、一矢って呼ぶぐらい全然問題ないです。てっきりキスされるかと――」
っと余計なことを言いそうになって口を押えたけど、遅かった。
子どもっぽく拗ねていた彼の顔が、真顔になった。
「キスしていいなら、めちゃくちゃしたい」
「――えぇ?」
「キスで治まるぐらいの生易しい気持ちじゃないから、すげえ臆病になってるよ、俺」
ポンポンと頭を撫でると、立ち上がろうとした。
彼が離れていくと、――そう感じてしまった。
例えるなら、一段抜かしした階段を駆け上がるような激しい動き。
疲れるとわかっていて、早く駆け上がりたくて息を切らすその気持ちによく似ている。
怖かったのは、彼のために伸ばしていた髪をどんな表情で彼が切り落としたのか。
どうして切り落としたのか。今までの私の傲りや勘違いを全て切り捨てられた。
表情を見る前に気を失ったのは、私が一矢くんを本当に、――だったから。
「華怜、さん」
立ち上がった彼のシャツを握った。
表情が見たくて、自分から触れて、見上げて。
「キス、したことないの。試して」
どうして一段抜かして階段を駆け上がったのか。
急いだ先で私は何をしたかったのか。
「試すなら全部、一矢で試すんだよね?」
彼、貴方、あの人。
距離を置こうと逃げ回っていたのは私。
何度門前払いをしても私の仕事先に現れ、私の親と共謀して私を陥れた人。
お笑い番組が好きで、笑い上戸でソファを転がり落ちる陽気な面もある。
切れ長の目は冷たく感じるクールな人なのに、目元にある黒子が嫌に色っぽい。
私が合コンに行くのを、「俺は心が狭いので」ときちんと嫌だと意思表示をしてくれる人。
私が貴方のために必死で伸ばした髪を、あっさりと切った張本人なのに。
こうやって雷で震える私のために、肩を濡らして急いで帰宅してくれた優しい人。
色んな感情が頭の中をぐるぐる駆け回って、何が正解か分からない。
分からないから試させて。分からないから教えてほしい。
「――華怜」
呼び方が甘く吐息を混じらせて変わると、ソファを軋ませながら座りなおす。
私の目を見て、気持ちを推し量り、気持ちを読み取ろうとしてくる。
「試して」
私は、ただ知りたいだけ。
男性恐怖症と、自分で自分を偽って男性を遠ざけていた私が、どうしてあなたに触れられたのか。
逃げ場がないからと嫌々結婚すると決めたはずなのに、どうして貴方の意外な一面に気づく度に心が動揺しているのか。
教えて。
試して。
一矢は少し傷ついたように微笑んだ後、指先で私の唇をなぞり、落とすように唇を合わせた。
気づかなかったが、いつの間にか緊張して唇は乾いていた。
少女漫画さえ読まなかった私は、かさかさの唇に彼が何度も角度を変えて重ねてくるのをどうしたらいいのか自分の行動がわからない。
心臓は自分のものではないほど大きく高鳴って、両手は拳を作っていてあまりにも不格好だった。
そのうちに、小さく伸びた彼の舌が唇を舐め驚いて薄く開いた唇の中に舌が侵入してきた。
「――んっ」
これが鼻で息をしなければいけない状況。
いや、普段から鼻で息をしているのだけど、角度を変えるごとに深くなる口づけに、甘さとか感触とか何も思う間もなく、流されていく。
「ふ、ぁっ」
変な声が漏れた、と内心恥ずかしいのに、ずるずると彼の体重でソファの上、覆いかぶされていく。
慣れてる、なあ。この人、いったい、今まで何人の人とこんなことをしてきたんだろう。
私があなたに髪を切られてから、この人は何人の人をこうやって恋人として喜ばしてきたんだろう。
彼の手が後ろ頭を撫でて、耳を触りながら頬を撫でた瞬間。
口づけは熱いのに、動く舌は艶めかしいのに、体温が冷えていった。
#ハッピーエンド