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夕暮れの空が
車の窓に淡い金を差し込んでいた。
孤児院の裏手、砂利の駐車場で
静かにエンジン音が立ち上がる。
運転席に収まっているのは
白のシャツに黒のベストという
私服に着替えたアラインだった。
神父服とは違う
けれども妙に絵になるその姿が
運転席越しのミラーに映る。
助手席には
緊張で指先をぎゅっと握りしめている
アビゲイル。
紺のカーディガンに
淡いクリーム色のスカートという
清楚な私服姿のまま
背筋を伸ばして座っている。
後部座席には時也とアリア。
二人の間には言葉はなく
ただ静けさが息づいていた。
さらに最後部のシートには
腕を組み、窓の外に視線を向けている
ソーレンの姿。
車がゆっくりと走り出すと
時也がふと口を開いた。
「すみません、アラインさん⋯⋯
車まで出していただいて」
「構わないよ。
異能の話は、なるべく他の人間には
聴かれたくないしね?」
軽くウィンカーを鳴らしながら
アラインはそう返した。
その声は平坦ながらも
どこか含みを持った響きを帯びている。
まるで、前もってすべてを
想定していたかのように。
しばしの沈黙の後──
アラインが、意識的に話題を切り出した。
「でね、時也?
キミに折り入って相談があるんだ」
その言葉に、時也が背筋を少し正す。
「はい。何でしょうか?」
「彼女⋯⋯アビゲイルがね?
キミのところで働きたいんだってさ」
助手席の少女が、小さく肩を揺らした。
次の瞬間、凛とした声が車内に響いた。
「喫茶桜で、ですか?」
「はい、櫻塚様!!」
座席から半身を浮かせるようにして
アビゲイルは後部座席の時也を振り返る。
頬は紅潮し
目元には真剣な熱が灯っていた。
「わたくし、是非とも
働かせていただきたいのです!!
アリア様専属のメイドでも
雑用係でも、何でも構いません!!
お掃除でも、お洗濯でも
全てやり遂げてみせます!!」
時也は一瞬だけ目を見開いたが──
すぐに、やわらかく微笑んだ。
「はい。喜んで。
よろしくお願いいたしますね
アビゲイルさん」
あまりにも即答だった。
前席のアビゲイルが
きょとんと目を見開く。
ソーレンも後方から「⋯⋯早っ」と
ぼそりと呟きを漏らし
アリアの視線が外の景色に揺れた。
だが、時也の声には迷いが一切なかった。
「もとより
貴女を見つけたら
お誘いするつもりでしたので」
その言葉に
アビゲイルの背筋がぴしりと伸びる。
「あなたの異能は、特に稀有なものです。
悪用しようとする方が
現れるかもしれないので⋯⋯
保護しようと思っていたのですよ」
その言葉を告げながら
時也はルームミラーを通して
アラインを一瞬だけ見た。
ミラー越しに交わる視線──
そこには、静かな探りがあった。
「時也?
もしかして、ボク──疑われてる?」
アラインが眉を片方だけ持ち上げ
わざとらしく笑った。
その声には
いつもの皮肉も艶も混じっていたが
どこか少しだけ──
図星を突かれたような間があった。
ハンドルを切りながら
彼の指先がごく僅かに揺れた。
時也は、穏やかな声のまま
そっと目を伏せた。
「⋯⋯いいえ。
アラインさんを疑ってなどおりません。
ただ──万が一の話です」
言葉には棘はなかった。
だが、それゆえに
逆に明確な〝警戒〟が滲む。
その沈黙を、ふと吹き抜けたのは
助手席のアビゲイルが思わず吐き出した
深い吐息だった。
そして──
静かに、それでも確かに彼女は微笑んだ。
信頼されている者たちの間に
自分が入っていくことの、緊張と喜び。
車内は、目的地に向かって静かに進む。
その空間に積もってゆくのは
甘く、少しだけ張りつめた空気だった。
車は緩やかな丘の傾斜を登っていく。
舗装された小道の両脇には桜の木々が並び
夕暮れに照らされた花弁が
風に揺られては地面に静かに舞い落ちる。
喫茶桜へと続くこの丘の道は
季節にかかわらず
どこか神聖さすら纏っていた。
車内には、先ほどの会話の余韻と
また新たな気配が静かに漂っている。
そんな中、時也がゆっくりと声を発した。
「アビゲイルさん。
⋯⋯失礼ですが
今はどちらにお住まいで?」
問いかけられた彼女は
一瞬だけ指先をぎゅっと握りしめたが──
すぐに、はっきりとした声で答えた。
「数ヶ月前に
両親が事故で亡くなりまして。
今はその家に、独りで暮らしております」
言葉は静かだったが
その奥には確かな痛みが潜んでいた。
誰にも打ち明けたことのない孤独の温度が
室内の空気をわずかに震わせる。
時也は、それを感じ取ったのだろう。
目を伏せ
少し考えるように眉を寄せてから
そっと口を開いた。
「⋯⋯喫茶桜には
まだ空き部屋がございます。
もしよろしければ
そちらで暮らしてみませんか?」
車窓の外
丘の頂に向かって夕陽が伸びていた。
だが、彼の声には続きがあった。
「⋯⋯ですが、大切なご家族との
思い出もあるでしょう。
その家を離れることが
かえって苦しくなるのではと
少し⋯⋯躊躇ってしまいます」
一瞬、沈黙が車内を支配した。
──だが。
「住みます!家は──売りますわ!」
明瞭に放たれたその声は
あまりに即答だった。
運転中のアラインが吹き出しかけ
ソーレンが思わず座席で身を起こす。
「早ッ!」
後部座席の時也も驚いたように目を瞬いた。
「え、あ⋯⋯
いえ、その、アビゲイルさん⋯⋯?」
けれど、彼女は堂々とした笑みを浮かべ
背筋を伸ばしたまま続けた。
「思い出は
家にあるだけのものではありません。
わたくしの最推しは──ライエル様
そして今は櫻塚ご夫妻の傍にあること。
日々の営みの中で積み重ねることこそが
真の〝思い出〟となりますわ」
胸元でそっと指を重ねたその姿は
気高さすら帯びていた。
その言葉に、時也はふと──
肩の力を抜いたように微笑んだ。
「⋯⋯アビゲイルさんは、強い方ですね」
「いえ、自身の心に従っているだけですわ」
視線を交わした二人の間には
確かな信頼が芽吹き始めていた。
そのとき、時也がふと言った。
「では──
引越し、お手伝いいたしますよ。
ソーレンさんは、力持ちですし」
運転席のアラインが
にやにやとミラーを覗き込み
最後部のソーレンが低く呻いた。
「⋯⋯結局、俺任せかよ⋯⋯」
ぼそりと呟いたその声に
アビゲイルが笑みを浮かべて振り返る。
「よろしくお願いしますね♡
重い箱はあなたが運んでくださいまし」
「はぁ⋯⋯
また桜に強い女が増えるのかよ⋯⋯」
車内に、くすりとした笑いが広がった。
やがて、丘の頂に佇む
〝喫茶桜〟が見えてくる。
石畳の上に
桜の花弁がはらはらと舞い降りる中──
その扉の向こうで
また新しい日々が始まろうとしていた。