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車が静かに石畳の上に停まった。
桜の花弁がひらひらと降る中
喫茶桜の建物は
丘の上に柔らかく佇んでいた。
夕陽が店のステンドグラスを透かし
虹のような色彩を壁に投げかけている。
アラインが運転席から降りると
軽やかな足取りで助手席へ回り
恭しく手を差し出した。
「どうぞ、アビゲイル嬢」
その声音に
アビゲイルはわずかに照れながらも
スカートの裾を押さえて車を降りた。
その足取りは慎ましくも
確かな覚悟を帯びている。
一方、後部座席では──
「アリアさん、お手をどうぞ」
時也が車内で身体をやや傾け
丁寧にアリアの手を取った。
その手を添えて
まるで宝石を扱うかのように
彼女を車から降ろす。
アリアは無言のまま
ただ時也の腕に手を添え直した。
光が彼女の金の髪に差し
深紅の瞳が一瞬だけ夕陽を反射して煌めく。
彼女の姿は
何かの神話から抜け出したように神秘的で
息を呑むほど美しかった。
最後に降りてきたのは、ソーレンだった。
「⋯⋯ふぁああ⋯⋯」
車のドアが重々しく開き
彼はぐいと上半身を伸ばして
大きく伸びをする。
筋肉質の背がぐっと反って
ジャケットの肩が軋む音すら
聞こえそうだった。
「ようこそ、喫茶桜へ」
時也が柔らかく微笑みながら
アビゲイルに振り向いた。
それはあまりに自然で
それでいて胸を刺すような
優しさに満ちていた。
アビゲイルは思わず手を胸元に当て──
震える声を整え、応える。
「⋯⋯お邪魔いたします」
「ふふ。
次にいらっしゃる時は
〝お帰りなさい〟になりますね」
──それは、優しさでありながら
宣言でもあった。
歓迎と帰属の二重の意味を含んだその言葉に
アビゲイルの心は大きく揺れる。
(いけません⋯⋯いけませんわ⋯⋯)
叫びたいほどの感動が
胸の奥を駆け上がってくる。
けれども
時也の読心術に余計なものを拾わせぬよう
彼女はぐっと堪えた。
「居住スペースの玄関は
こちらになります」
時也は、アリアの細い手を腕に添わせたまま
緩やかに歩き出した。
アリアの歩幅に合わせ
すべてを受け止めるような歩き方。
アビゲイルの瞳が
その二人の後ろ姿を見つめる。
(ああ⋯⋯
働き始めたら
この光景が毎日見られるんですのね。
こんなご夫婦⋯⋯
物語の中だけだと思ってましたのに)
アリアが時也の腕にそっと寄り添うその姿。
時也が何も言わずに
ただ優しく受け入れる背中。
(そして──)
視線が自然と後ろに流れた。
巨躯の男、ソーレン。
無言で歩きながら
夕焼けに染まった瞳で空を見上げている。
口数は少ないが
誰よりも繊細で、誰よりも優しい男。
アビゲイルの口元がふふっと綻び
笑みが浮かぶ。
まるで秘密を胸に抱えた少女のような
笑顔だった。
「⋯⋯なにニヤついてんだ、お前?」
ソーレンが怪訝そうに眉を顰め
首をかしげた。
それがまた彼らしくて
アビゲイルは小さく肩を揺らして笑う。
「なんでもありませんわ♪」
「⋯⋯なんだかなぁ」
ソーレンが呆れたように舌打ちすると
彼らの笑い声が
丘の上の桜の木々にやさしく揺れた。
喫茶桜──
そこは〝ただいま〟と
〝おかえり〟の間で生きる人々が
静かに交差する場所。
その扉の前に立つ一行の姿を
淡く降り注ぐ花弁が祝福していた。
⸻
扉が開いた瞬間
外気と内気の境界がふわりと揺らいだ。
香ばしいコーヒーの香りが
一気に鼻腔を満たす。
それはただの飲み物の匂いではなく
安心感そのものを抱きしめるような
柔らかな温もりを伴っていた。
「お帰りなさい!
⋯⋯あら?
アラインだけじゃなく⋯⋯お客様も?」
奥から響いたのは
弾けるように明るい声。
レイチェルだった。
エプロン姿の彼女がキッチンから顔を覗かせ
満面の笑みを浮かべて
小走りに近づいてくる。
黒髪のボブが揺れ
エメラルドの瞳が軽やかに弾んでいた。
リビングの奥、テーブルの上には
蒸気を立てるコーヒーカップが六客
きっちりと並べられていた。
香りの違う豆を
絶妙にブレンドした香ばしさが
室内を包み込んでいる。
アビゲイルはその光景に
思わず目を見開いた。
すべてが整っている。
それでいて、押し付けがましさは一切なく
まるで何年も
一緒に暮らしてきた家族の風景のようだった
「もう、青龍!
お客様が来るから
コーヒーの数がこれだけいるなら
最初からそう言ってよ!
青龍も珍しく
コーヒー飲むのかと思ったじゃない。
来客用のお茶菓子、急いで用意するね!」
レイチェルが肩に手を当て
軽く腰をひねってぶつぶつと文句を言う。
だがその声には苛立ちよりも
どこか楽しげな余裕が滲んでいた。
青龍はというと、部屋の隅に静かに立ち
包帯を巻いた幼子の姿で
それでも威厳を失わぬ眼差しで
彼女を見つめている。
「⋯⋯失礼いたしました。レイチェル様」
青龍が深々と頭を下げ
すっとその場を離れる。
「ボクの時に
お茶菓子が出たことあった?」
アラインが肩越しに軽口を飛ばすと
レイチェルはくるりと振り返り
口を尖らせた。
「あんたは味にうるさいから
出す方がめんどくさいのよ!」
「時也様
お荷物を車より運び出してまいりますので
どうかごゆるりと」
「ありがとうございます、青龍」
時也の声は穏やかで
そこには絶対の信頼が宿っていた。
青龍は再び一礼し
幼子の姿のまま
音もなく玄関の外へと消えてゆく。
アビゲイルは
その一連のやり取りを黙って見つめていた。
まるで舞台を見ているかのようだった。
誰一人として
自分の役割を疑う者はいない。
誰もが自然と、自分の持ち場を心得ていて
それを心地よく担っている。
──血の繋がりなど無くとも。
ここには、確かに
〝家族〟と呼べる絆があった。
アビゲイルの胸が
熱を持って静かに高鳴る。
この場所に、自分も加わるのだと。
この温もりに触れ
この流れに混ざるのだと。
(⋯⋯ああ
ここが私の帰る場所になるのですね)
彼女はそっと、スカートの裾を摘まみ
わずかに頭を下げた。
まるでその空気に、礼を捧げるように。