「兄ちゃん」
滲む視界の中、声が聞こえる。
朦朧とした意識の中でも愛しい弟の声なら認識出来る。
竜胆、そう名前を呼びたかったが其れさえ儘ならず、口からは咳込みと同時に血反吐が出るだけ。
ごめんな竜胆、ヘマしちまったんだ。もっと一緒に居たかったよな、俺もだよ。
「兄ちゃん!!」
弟の声は段々と遠くなって行く様な錯覚を感じる。
嗚呼、まだ逝きたくない。せめて最後に此奴を抱き締めてやりたい。
生温かい水が自信の額に落ちるのを感じる。きっと此奴の頬を伝って降りて来た涙だろう。
こんな優しい兄思いの弟を自分が持って良かったのか、不意にそう思う時があった。
もっと幸せな家庭に産まれてたら良い子に育ったんじゃ。そう自分に罪悪感を感じた事もある。
中学の時だろうか、ある日。
「竜胆、オマエは兄ちゃんのコト好きか?」
何気なくそう御前に俺は問った。
「大好きに決まってんじゃん。」
何言ってんだ、とでも言いたげな顔をすれば照れ臭そうに微笑んで。
その笑顔が愛おしくて堪らなかった。永遠に守って居たかった。
だがそんな夢は朽ち、現実を突き付けられるばかりで。
救急車を手配する姿が見える。もう手遅れなのにな。
視界の四方が暗くなって来て居り、痛覚も過ぎようとしている。
でも最後に彼奴を抱き締めたい。声を掛けてやりたい。俺は最後の力を振り絞って
「竜胆、来い」
血を吐きながら拙く言葉を繋げてそう一言言った。彼奴は直ぐに振り向き、
躓き掛けの状態で寄ってきた。
「兄ちゃん、無理すんなよ…もう直ぐ救急車が来るんだ、其れまで耐えてよ…..」
嗚咽混じりに竜胆は言葉を紡ぐ。
「大好きだぞ、竜胆。」
微笑みながら優しく竜胆を腕で包み込んだ。
「兄ちゃん…兄ちゃん…?おい、兄貴!!しっかりしろって!!…」
その声が聞こえたと同時に、灰谷蘭は人生の幕を閉じた。
__________
兄ちゃんが冷たい。何故?何故?さっきまで一緒に駄弁って居た筈なのに。
兄が冷たい理由なんて身体は理解してる。でも己の魂が理解しようとしてくれない。
兄の体重が掛かる。不思議と重いとは感じなかった。
ただ、涙ばかりが目から溢れ出て来る。
「兄ちゃん…なんで…?何で俺を置いて逝くンだよ…連れってって貰った方が…」
幸せだった、そう言い掛けた時。俺の分まで生きろ、そう聞こえた気がして。
きっと自身の気の所為であろうが、それ以上言わぬ様口を噤む。
救急車のサイレンが鳴り響く。手遅れの急患を抱き締めたまま、意識を失った。
目が覚めれば病室。俺の意識が戻った事に気付いた看護婦は淡々と状況を説明して行く。
分かった事は兄が死亡したこと、自分だけが生き残ったこと。それだけ。
泣く余裕も無かった。否、兄が居なければ自分は泣けないのだ。
泣いた時慰めてくれた兄が他界してしまったならもう泣くことは許されないのだろう。
戒めの様に脳内で復唱し、心を落ち着かせる。
立ち上がろうとすると、看護婦に止められた。もう直ぐ葬儀だから着替えろと、それだけ伝えられた。
葬儀に参列したが心に風穴が空いたような気分だった。兄の遺骨を見て、
もう抱き締めてはくれないんだと改めて実感した時、人間の感情が消え去った気がした。
兄が居なければもう灰谷竜胆では無い。ならどう生きて往けと言うのだ。
本当にあれは兄の遺骨なのか。もしかしたら兄は生きているのでは無いのか。
段々と思考は狂い始め、とうとう俺は可笑しくなってしまった様で。
兄の居ない食卓では味がしなくって。何かの物体を口に無理矢理詰め込んでいる気分だ。
もう兄は居ないのに、兄の分まで布団を敷いてしまって。
2人分の食事を間違えて作ってしまって。
服を色違いで2着買ってしまったり。
そんな日常が続いて。
もう兄の呪いから解放されたい。この悲しみから離れたい。
ならどうすれば良い?
気付けば犯罪組織の幹部になって居た。
薬なんて取引先で簡単に手に入る。精神安定剤は俺の心を落ち着かせてくれる。
適量なんて無視して口に詰め込んで。頭痛なんて無視して撃ち殺して。
腕を切って忘れて。風呂場で虚無を感じて。
兄と同じ様に髪を伸ばして三つ編みにして。
洗面器に愚痴と吐瀉物を吐き出して。
死ぬまで解けない呪いを背負って。
撃ち殺して。撃ち殺して。寝て。飲んで。食って。吐いて。切って。
身体はとうに痩せこけて居て。
自分の存在意義さえ感じられなく。
処方箋が飛び散る部屋に一人住まう。
こんな生き方なんて、そう悲観した。
兄の生きろと言う呪いからただ離れたくて。
兄の仏壇の前に立った。
アジトに合ったスクラップで全てを叩き割った。
家を出て何処か遠くに旅立った。
飛行機の中で思う、今度こそ俺は自由だと。
何処か外国の高い崖を前にして、
「俺は鳥、何処までも飛べるんだ。」
「今逝くよ、『蘭』」
兄の全てを消したならもう血縁では無い。
ただ、お互い大切にし合ッて居ただけの他人だと。
そう自己暗示を掛け、
恐怖など感じず、ただただ心地よい良い儘。
地面を軽く蹴って。
鳥の様に舞い上がる事は出来ず。
ただ、人生で一番安心した様な顔をしながらふわりと落ちて逝く。
________
××国にて 、_____ 遺体が発見され___
警察は身元確認を_______.________________
________________________________
「遅かったな、竜胆」
「此れでも結構急いだンだぞ、文句言うなよ。」
兄に逢えた。なら、もう俺は泣いて良いんだ。
会いたかった、会いたかった、そう泣き叫んで飛び付いて。
「ふふ、まー良いよ。また逢えて良かった、」
2人は微笑み合って、
また何時かの様に、抱き締め合って。
世界で一番幸せに成仏しました。
_______________終演.
コメント
1件
(*TㅿT)無理主様最高です