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耀は和香とともに、目の前の図書館に向かう坂道を上がっていた。
涼やかな風。
道沿いに連なる、色づいた木々からの木漏れ日もいい雰囲気だ。
横にいる和香は可愛らしく、ずっと笑顔で。
ずっと妄想を語っている……。
「あの白いおうちに住んでいる人は、図書館に通うのに便利だから、あそこに家を建てたんですよ」
いや、目の前の広い道が、何処に行くのにも便利だから建てただけだが……。
「本好きで静かに暮らしている老夫婦なんです」
だから、そのご老人たちは何処から湧いてきた。
「まあ、そんな感じに私の理想の暮らしをしている老夫婦が暮らしているはずだったんですが……」
と和香は残念そうにこちらを見た。
「……本好きの若い男が住んでたんじゃいけないのか」
と文句を言うと、
「課長、本、お好きなんですか?」
と和香は疑わしげに訊いてくる。
「そりゃ、今は時間がないから、そんなに読まないが。
学生時代は結構読んでたぞ。
っていうか、図書館前の家に住むのが理想なら、俺とあの家に住めばいいじゃないか」
なんとなくそう言ってしまった。
「いえいえ。
ですから、私は別にあの晩、課長となにかあったわけではありませんので。
責任とっていただかなくて結構です」
じゃあ、今から、なにかあったら一緒に住むのか?
……と思ったのだが、言えなかった。
近すぎるのも問題で。
それ以上語らう暇もなく、図書館の前庭に着いていた。
振り返った和香は、下の道を見下ろし、大きく伸びをする。
「やっぱ、近いですね。
いいなあ、あのおうち」
と和香は我が家を見ながら、うらやましがってた。
「……俺の家が知らないうちに、お前の妄想により、蹂躙されていたとは」
図書館に入った耀は、たまたま和香と同じ棚を眺めていた。
旅に関する棚なのだが。
……あくまでも、たまたまだ。
「いえいえ。
素敵な家だな~と思って眺めていただけですよ」
そんなことを言いながら、和香は銭湯の本などめくっている。
そんな和香の横顔を見ながら、耀は思う。
……あの家が好きか?
では、住んでいる人間はどうなんだ?
なにが面白いのか、和香は古い銭湯の写真を見ながら、にまにましている。
俺はこいつの何処がいいのだろうかな、と耀は思う。
たまに見せるミステリアスなところだろうか。
それとも、ふいに見せる、いつもの間抜けヅラとはかけ離れた憂い顔がいいのだろうか。
そんなことを考えていると、銭湯の本を見ながら、和香が突然、ふふふと笑い出した。
小声で言う。
「そういえば、この間、『尊敬しています』ってスマホで打ったら、『村系しています』って出たんですよね。
『山村』の『村』に、『系外銀河』の『系』なんですけど」
それだけ言うと、和香はまた無言で本を読みはじめる。
いや、銭湯の本を見ていて、なんで今、その話だっ!?
あと、なんで、系の字説明するのに、系外銀河!?
お前にとっては、系列とか系統とかより、馴染みのある言葉なのかっ?
そして、その話には、つづきもオチもないのかっ?
ある意味、ミステリアスっ!
と耀は、しゃがんで下の棚で次の本を探す和香のつむじを見つめた。
和香と図書館をうろうろしたり、コンビニでお昼を買って図書館外のベンチで食べたりして、一日を過ごした。
朝、和香と出会ったとき。
ほんとうはコンビニに切らしていた珈琲を買いに行くところだった。
ついでに、それも買ったし。
まあいい感じに休日の夕暮れを迎えたな、と耀は満足した。
だが、ちょっと欲も出る。
……このあと、二人で呑みに行ったりできるだろうか?
和香を誘ってみようか、と思ったそのとき。
図書館のテラス。
夕暮れの光の中で、借りた本を眺めていた和香は微笑み、こう言った。
「なんか久しぶりです、こういうの。
社会人になると、人と話すときは、食事かお酒がつきものじゃないですか。
学生時代にみたいに。
こんな風に、ただ一緒に本を読んだり、外で並んでお弁当を食べたりとか初めてです」
……誘えなくなったじゃないか。
自分が他の男とは、ちょっと違う、というところを見せるためには。
今、和香を誘ってはならない。
そう耀は悟った。
まあ、そもそも、俺は酒弱いしな。
また介抱してもらうとか格好悪すぎるだろう。
「そうか……」
じゃあ、このまま帰るか、と思ったのだが。
そこで、ふと不安になる。
他の男とはちょっと違う、とか言うと、なんか格好いい感じだが。
『男として意識されない』という方面にちょっと違う、ただの友人になってしまう可能性もあるじゃないか。
やはり、ここは素直に酒や食事に誘うか。
誘わないか。
今が運命の分かれ道かもしれないっ。
そう思った耀は、迷った末、どちらでもない中途半端なことを言っていた。
「コンビニ弁当でも買って、うち来て食べないか?
図書館からすぐ帰れる家、憧れだったんだろ?」
それを聞いた和香は、
「あ、いいですねー」
と本から顔を上げて笑う。
ホッとしてから思った。
上司にも容赦無く物を言う自分が、なんでこんな入社して一、二年の小娘の機嫌とってんだ。
情けないな、と思いながら。
オッケーをもらって小躍りしている自分もいた。
今が運命の分かれ道かもしれないと。
このとき漠然と思ったのだが――。
あとから考えれば、ほんとうに、ここが運命の分かれ道だったのだ。
いや……もしかしたら、
もっと早くから。
たぶん、きっと――。
「キッチンもダイニングも素敵ですね~っ。
一人暮らしなのに、お部屋もたくさんっ。
普段、どうしてるんですか?
各部屋に一日ずつ住んでみてるとか?」
家の中を見ていいと言うと、そんな阿呆なことを言いながら、和香は、ぐるぐる家の中を巡っていた。
なんだろうな。
一人前の女性である和香に対して、とても失礼なんだが。
飼いはじめた可愛い仔犬を初めて散歩に連れていったら、すごくはしゃいだので、自分まで嬉しくなった――。
そんな感じだった。
頭の中に、わふわふわふわふわふっ、と公園を喜び飛び回る真っ白な小型犬の幻が見えた。
この家を建ててよかった、と建てたときより、思ったし。
走馬灯のように蘇る地鎮祭や棟上げ式をこいつと一緒にやりたかったな、と思ってしまった。
わふわふ喜んで、餅を撒いてそうだ。
そう思ったこの時点では、和香の存在はまだ、『珍しくて可愛い愛玩動物みたいなやつ』という域をいまいち出ていなかったように思う。
「いいなあ、こういうおうちに住んでみたいです」
だから、住めよ。
「あ、和室もある」
と襖を開けてみながら和香が言う。
「っていうか、『おうち、見せてください』『はい、どうぞ』ってすぐに見せられるのがすごいですね。
私なら狭いアパートでも、『ちょっと二、三日待ってくださいっ』て言わないと、人、入れられないです」
「外で待たせるのか、二、三日」
と言うと、和香が笑う。
……なんとなく俺、待ちそうだな、外で二、三日。
まだそこまで寒くはないのに。
何故か雪が降りしきる中、凍えて和香のアパートの下に立っている自分の幻が見えた。
隣には雪だるま。
そこに、写真でしか見たことのない羽積が全身黒っぽい服で現れ、無言であったかい缶コーヒーを差し入れてくれる。
「何処で食べます? 課長」
という和香の愛らしい声でようやく現実に返った。
「ダイニングで……
いや、お前の好きな部屋でいいぞ」
と耀は言った。