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【現実世界・聖環医療研究センター/第七特別病棟】
703号室のドアが、静かに閉まった。
細いスリットガラス越しに、佐伯蓮のベッドが少しだけ見える。
機械のモニターはまだついているが、
さっきまでの「何も返ってこない線」ではない。
わずかに揺れる波形が、“ここにいる”と告げていた。
廊下に出た瞬間、ハレルは足もとに違和感を覚えた。
(……さっきより、揺れてる)
床の白いタイル。
ほんの一瞬、継ぎ目の線が「石畳」の目地に見えた。
瞬きをすると元に戻る。けれど、脳が誤認しただけ、という感じではない。
木崎も天井の蛍光灯を一度見上げる。
「……一人分、“帰った”影響だな。
座標の重なり方が、濃くなってる」
「このまま、すぐ二人目に行くぞ」
木崎が、小さく息を整えながら言った。
「長居すればするほど、運の要素が増える」
ハレルは頷き、ポケットの中のスマホが震えたのに気づく。
画面には〈サキ〉の名前。
「……もしもし」
声を落として応じる。
『今、どこまで行った?』
「703終わった。これから705。
第七病棟の廊下……今のところ、人はいない」
『こっちは駐車場。外は静か。
でも、さっきから病院の窓が、ちょっと“二重に見える”』
「無理すんな。変だと思ったら、すぐ離れていいから」
『そっちこそ。
二人目も、ちゃんと“帰してあげて”』
短く相槌を打ち、通話を切る。
(サキは、いつも通り“外側”を守ってくれてる)
それだけで、胸の奥の揺れが、少しだけ形を持った。
「七海さんの部屋は、すぐだ」
木崎が前方を指さす。
《705 村瀬 七海》と書かれたプレート。
その下のスリットガラスには、ぼんやりと白いシーツの端が見えていた。
ハレルは息を吸い、705号室のドアハンドルに手をかけた。
◆ ◆ ◆
小さな機械音と、一定のリズムの呼吸音。
703号室と、匂いは似ている。
でも、空気の温度は少し違った。
「……村瀬、七海さん」
ベッドの上。
長い髪が枕に広がっている。
年齢はハレルたちより少し上――二十代前半くらいに見えた。
口元には、うっすらと笑い癖のような線が残っている。
普段はよく笑っていたのだろう、と想像できる顔つき。
(ニュース記事で見た写真……
飲食店でバイトしながら、ゲームのデバッグをやってて、
βテスターに“巻き込まれた”人)
胸の上で組まれた手。
機械に繋がれた細い管。
どれも、佐伯蓮の部屋と同じはずなのに――
(こっちは、“動きたがってる”感じがする)
ベッドの足元の床が、一瞬だけ薄い水面みたいに揺れた。
すぐに元通りになる。
でも、見間違いではない。
「時間、あんまりない」
木崎が、ドアの内側から廊下を確認しつつ言った。
「やるなら、一気にだ」
橘靖竜
「……はい」
ハレルはケースをベッド脇の小さなテーブルにそっと置く。
ロックを外し、蓋を開いた。
青い光――ユナ。
淡い桃色――村瀬七海。
薄緑――日下部奏一。
そして、かすかに曇った琥珀色のカプセル――佐伯蓮の“抜け殻”。
「七海さんは……これだ」
淡い桃色のコアを、指先で持ち上げる。
近づけた瞬間、カプセルの中の光がふっと強まった。
《うっそ、マジ?》
《ねえ見て、これ、“テスト版”でしょ?》
《写真だけじゃなくて、ちゃんと記録残しときなよ》
断片的な声が、頭の奥をかすめていく。
佐伯のときよりも、テンポが速い。
軽いノリと、仕事への真面目さが混ざった感じ。
「……村瀬さん」
ハレルは小さく呟き、スマホを取り出した。
「セラ。聞こえる?」
耳元で、ほんの少し遅れて彼女の声が返ってくる。
『……聞こえてる。病棟の揺れ、こっちにも伝わってるよ』
「二人目に行く。
村瀬七海さん。コアは淡い桃色」
『塔側も、二度目のピーク準備に入ってる。
ノノが言うには――』
イヤホン越しに、早口の声が割り込んできた。
『“時間を短くする代わりに、精度を上げる”。
一回目より、境界の負担はデカい。
でも、その分“混ぜ物”が入り込みにくくなるはず』
「混ぜ物……?」
『カシウス側の“横取り”だよ。
さっき佐伯のときは、ほとんど感じなかった。
でも、三人目で絶対仕掛けてくる。
二人目のうちに、できるだけ“クリーンな線”を通しておきたい』
アデルの声も、少しだけ重なった。
『現実側の病棟は、今どんな状態だ』
「廊下が……
時々、“石畳”っぽく見えたり、窓の外に別の空が重なったりしてます」
『こちらも似たようなものだ。
塔から見ると、“こちらの世界”と“そっちの病院”が、薄い膜一枚で重なり始めている』
短い沈黙。
それから、アデルの声が少し柔らかくなる。
『一人目を“帰した”のは、間違いなくいい結果だ。
だが、そのぶん敵も本気を出してくる。
二人目は――迷う時間があっても、迷う余裕はない』
「……こっちも、やるって決めてます」
ハレルは、ネックレスを握りしめた。
胸の下で、主鍵がまた熱を帯び始める。
「村瀬七海さんを戻す。
それが終わったら、日下部さんも――」
『三人目のときは、絶対に邪魔が入る。
だからこそ、二人目で“感覚”を掴んでおけ』
ノノの声が、そのまま命令になった。
『こっちは塔で〈補正〉をかける。
ハレルは、“七海の声”だけに集中して。
余計なノイズが混ざってきたら、即座にセラ経由で伝えて』
「わかった」
通話を切る。
病室に、機械音だけが戻る。
木崎が短く言う。
「……やるか」
「はい」
ハレルは、ベッド脇のモニターの位置を少しだけずらした。
七海の胸元が、ちょうどコアを置きやすい位置になる。
(佐伯さんのときと、同じように)
ネックレスを、シャツの上から軽く押さえる。
主鍵。
オルタ・スパイア側の副鍵。
そして、手の中の淡い桃色。
「村瀬七海さん」
もう一度、名前を呼ぶ。
「……帰り道、ちゃんと、こっち側に繋ぐから」
コアを、そっと胸の上に近づけた。
――瞬間。
病室の空気が、カチリと切り替わる。
窓の外の夜景に、石造りの塔の輪郭が重なった。
蛍光灯の白が、魔術灯の淡い橙色と二重になる。
ネックレスが熱を跳ね上げる。
どこか遠くで、塔の鐘のような低い音がした気がした。
《え、なにこれ――》
《ちょっと、聞こえてる? そこの誰か》
頭の奥で、明るい声がはじける。
「……村瀬さん」
意識が、触れた。
第二の灯りが、病棟と塔をまたぐように、強く点り始めた。