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【現実世界・聖環医療研究センター/来客用駐車場】
フロントガラス越しに、白い建物の灯りが見えていた。
聖環医療研究センター。
入院棟の上層、どこかの窓だけが妙に明滅している。
軽バンの運転席。
雲賀サキは、シートを少し倒した姿勢のまま、膝の上のタブレットを見つめていた。
画面には、簡略化された施設の見取り図。
第七特別病棟の位置に、赤い丸。
その下のメモに、走り書きがある。
《巡回 23:15/23:45》
《死角 搬入口→非常階段→エレベータ前》
(……うまく、1人目戻せたみたい)
スマホには、新しい通知は来ていない。
既読のつかないグループチャット。
“変な揺れがしたらすぐ知らせる”。
自分の役目を、サキは何度も心の中でなぞった。
ふと、視界の端で光が揺れた。
外灯が、一瞬だけ細く伸びる。
まるで、誰かがポールを上から押し潰したみたいに、影がぐにゃりと歪んだ。
「……まただ」
サキは唇を噛んだ。
ここに車を停めてから、何度か同じ揺れを見ている。
病院の窓の明かりも、時々リズムを崩す。
(お兄ちゃんたち、今あそこで……)
胸ポケットの中で、スマホが小さく震えた。
期待して画面を見る――が、通知は別のアプリだった。
どうでもいいお知らせを、すぐ閉じる。
その時だった。
駐車場の入り口側で、ヘッドライトが一つ、ふっと曲がってきた。
黒いセダンがゆっくりと入ってくる。
この時間にしては、やけに堂々としたスピード。
(え……?)
サキはとっさに、背筋を伸ばした。
シートベルトを締め直し、タブレットの画面を伏せる。
セダンは、ほとんど迷わず、軽バンから二台分ほど離れた場所に停まった。
エンジンが止まり、運転席からひとりの男が降りてくる。
スーツでもラフな格好でもない。
地味なジャケットにノーネクタイ。
だけど、歩き方に「どこかの役所の人」みたいな匂いがあった。
(警備員……じゃない)
サキはとっさに、シートベルトをもう一度確認した。
男はまっすぐこちらへ歩いてくる。
ヘッドライトに目を細めることもなく、一定の足取りで。
コンッ。
運転席側の窓を、指先で軽くノックされた。
「……はい」
サキは、できるだけ普通の声で応じた。
窓を少しだけ下げる。夜風が、冷たく入り込んできた。
「雲賀サキさん、で合ってるかな」
落ち着いた声だった。
男は、ポケットから一枚の身分証を取り出し、ガラス越しに軽く傾けてみせる。
《内閣情報調査室 城ヶ峰》
ざっくりとした肩書きと、写真。
さっき木崎から聞いた名前が、頭の中でつながる。
「……用件は、なんですか」
「お兄さんと、木崎透さんの“知り合い”だよ。
少なくとも、本人たちにはそう名乗ってもいい相手のつもりだ」
にこりと笑う。
目だけが、笑っていなかった。
「心配はいらない。今すぐ連れて行くとか、そういうつもりはない」
「だったら……何しに来たんですか」
サキは、窓枠を握る指先に力を込めた。
車内の“空気”を、悟られないように。
城ヶ峰は、ちらりと後部座席の方へ視線を流す。
そこには、ただ畳んだブランケットと紙袋があるだけだ。
それでも、その目線は妙に正確に“何かを隠しているはずの場所”をなぞっていた。
「ここ最近の“事故”のラインを追ってきたらね。
どうしても、この病院と――君たちに行き着いた」
淡々とした口調。
「赤錆埠頭、旧クロスゲート本社、湾岸倉庫街。
そこにいた“少年と少女”のシルエットが、どうにも重なるんだ」
サキは、返事をしなかった。
城ヶ峰も、それ以上急かさない。
「……君たちが今夜、ここで何をしようとしているのか、完全にはわからない。
ただ――」
そこで一度、言葉を切る。
その瞬間、外灯がまたちらりと暗くなった。
「“普通じゃない何か”に、首まで浸かっていることだけは確かだ」
(それは……)
否定できなかった。
ハレルのネックレス。
異世界。
観測鍵と、コアと、器。
サキは、ぎゅっと視線を落とした。
「……だからって、止めるんですか」
「止められるなら、とっくに止めてる」
城ヶ峰は、少しだけ肩をすくめた。
「こっちはこっちで、別の“線”と戦ってる。
警察としての線と、役所としての線と、
……それから、ひとりの人間としての線とね」
その言い方に、どこか疲れが滲む。
「君たちがやろうとしていることが、
この病院の“中身”を守ることにつながるなら――
本当なら、止める理由はない」
「さっきも電話で、この病院の“骨格”だけは木崎さんに渡した。
……あとは、あの人の使い方次第だ」
「じゃあ、協力してくれるんですか」
思わず出た言葉に、城ヶ峰は少しだけ笑った。
「そこまで単純なら、楽なんだけどな」
そう言った、その時だった。
駐車場の奥。
コンクリートの地面に、黒い線が一本、すーっと走った。
タイルの目地じゃない。
“影”が、地面の上に直接描かれたみたいな黒。
サキは反射的にドアを開け車外へ身を乗り出した。
「……見えますか」
「見えてる」
城ヶ峰の声が、一瞬で“仕事の声”に変わる。
指先が、わずかに震えていた。
黒い線が、縦に裂けた。
まるで、空間にファスナーを開けたみたいに。
その隙間から、靴が一歩、出てくる。
黒いブーツ。
その上に、見慣れない服――施設の制服とも違う、軍服とも違う装備。
胸のあたりが、妙に硬質な光を帯びている。
「……ちょっと、ずれたかな」
男の声がした。
若い声、というには低い。
年寄りの声、というには軽い。
いくつもの響きが、薄くずれて重なっている。
サキは息を呑んだ。
(……人、だよね?)
黒い線から抜け出てきた“それ”は、周囲をゆっくり見回した。
白い建物。外灯。駐車中の車。
胸のプレートが、ほのかに赤く明滅している。
目は――真っ黒だった。
白目がない。
夜の穴を、そのまま二つ、顔にはめ込んだみたいな黒。
「初めてだからね。
境界がこんな状態で、“座標指定”はこんなもんか」
その視線が、軽バンとセダンに向けられる。
「止まれ――」
城ヶ峰が、一歩前に出た。
サキと車の前に、自然に身体を滑り込ませる。
「君は、誰だ」
「ボク?」
黒い瞳が、首を傾げた。
「ボクは、ボクだよ。
“代わり”をするための、きれいな器」
胸のプレートが、カチ、と小さく鳴る。
薄いラインが表面を走り、魔術紋のような模様が一瞬だけ浮かび上がった。
サキは、喉の奥が乾くのを感じた。
「……お兄ちゃんの、知り合い?」
つい、そう尋ねてしまう。
“それ”は、少しだけ嬉しそうに笑った。
「うん。
ボスから聞いてるよ。
鍵持ちの子と、その“妹”がいるって」
「ボス……?」
「カシウス様」
多重の声が、その名をふわりと撫でるように言った。
「ハレルくんは、今、上だよね。
安心して。ボスからは、“本気でジャマはするな”って言われてる」
「……“本気で”?」
城ヶ峰の目が細くなる。
“それ”は肩をすくめた。
「ちょっとだけなら、いいでしょ。
どんなふうに揺れるか、データ取らなきゃいけないし」
指先を、ひらりと動かした。
その瞬間――駐車場の空気が熱を帯びる。
アスファルトの影から、赤い火花の輪が生えた。
さっきまでただの暗がりだった場所に、細い炎の線が走る。
「伏せろ!」
城ヶ峰が窓越しに怒鳴る。
サキは身をかがめた。
次の瞬間、軽バンの横を、炎の弾がかすめていく。
ドン、と鈍い音。
車体の一部が黒く焦げ、ガラスが細かく震えた。
「ひ……!」
サキの声が喉で止まる。
さっきまで静かだった病院の窓が、一斉にちらついた。
「これは、“挨拶”ね」
“それ”――代用(サロゲート)は、楽しそうに言った。
「ボクの仕事は、
君たちを殺すことじゃない。
ちょっとだけ、ここの“足場”を崩すこと」
炎の輪が、ゆっくりと広がる。
駐車場の端から、白い建物の方向へ向かって。
城ヶ峰は、その光景を見つめながら、奥歯を噛んだ。
(……これは、俺たちの“事件”の範疇を、とうに超えている)
それでも、退くわけにはいかない。
「サキさん」
短く名を呼ぶ。
「絶対に、車から離れるな。
何があっても、ここから動かず――
兄さんたちの“帰り道”を空けておけ」
サキは、震える喉で、それでもはっきりと答えた。
「……はい」
炎の光が、駐車場をゆらゆらと照らす。
その赤が、聖環医療研究センターの壁面に、不吉な揺らぎを映していた。
――その真上で。
第七特別病棟の一室で。
ハレルたちは、まだ知らないまま、次の“再会”の準備を進めていた。
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