ユカリは出来る限り上品な微笑みを浮かべ、煌々と輝く月に惹かれる哀れな蛾のように、込み合う食堂を縫うように、窓際の席の手を振る少女の元へ向かう、その間お互いに好奇の眼差しでじっと見つめながら、お互いに細やかな微笑みを捧げながら。
「ありがとうございます。えっと」と相手の名前を知らないことに気づき、ユカリはまごつく。
「篝火だよ。みんなはベルって呼ぶ」
「ありがとうございます。ベルニージュさん。自分の部屋で食べようか迷ってて」
ここ一か月くらいにユカリは何度か、宿でベルニージュを見かけた。この年齢の一人旅など珍しいなんてものではない。必然興味を引かれ、しかし話しかけようとして躊躇われ、結局今日の今まで勇気が出なかったのだった。そしてついぞ出なかったというわけだ。
何度か見かけたが、しかしこれほど近くで観るのは初めてだ。
赤毛は燃え立つ炎のように揺らめき、白い肌まで光に透けて赤みがかって見える。豊かな睫毛は鶚が羽ばたくように瞬き、瞳は赤毛よりもさらに濃い新しい血のような深紅。深遠なる知性を秘めつつ、子犬のように親しみ深く煌めいている。ユカリに比べるとはるかに背は低いが、同年代の中では少しばかり大人びた容姿をしていた。身につけている翡翠色の衣は良く似合っていて、何か魔法の気配が袖や裾から夏の朝の滴に濡れた野原のように香り立っている。
そこでユカリは、はたと気づく。そこに椅子などなかった。てっきりベルニージュの向かいに椅子があるのだと思っていたが、その席にはベルニージュの座っているそれしかない。近くの机のどこにも余った椅子などない。
ユカリは安易に怒りへと感情が振れすぎないように堪え、しかし戸惑いを隠し切れないままベルニージュに尋ねる。
「椅子がないのですけど、からかったのですか?」
ベルニージュが首を振ると、強い風に煽られた火のように赤毛がはためく。
「ううん、からかってなんてないよ」そう言って、ベルニージュは微笑む。「ワタシと勝負しよう! この椅子を賭けてね!」
その時、隣の机の老夫婦が席を立ち、野花のような雰囲気の夫人が椅子を譲ってくれた。「まあ、こちらをどうぞ。私たちはもう行くからね。仲良くしなさいね」
そう言って夫人は椅子をこちらの机の方へと押しやった。
気まずかったが夫人のせっかくの気遣いを断るわけにもいかず、ユカリは勧められるままにベルニージュの向かいに座って、皿を机に置く。机の上の確執など気にも留めず、食欲をそそる香りが辺りに静かに広がっていく。
「さて」ベルニージュはほくそ笑む。「勝負の内容はどうしようか?」
ユカリはその闘争を求める深紅の瞳に冷たい視線を返す。
「いや、もういいですけど。椅子には座れたので」
ユカリは粥を口に運ぶ。アルダニ地方かリトルバルム共和国か料理人マーニルの独特の味付けなのか分からないが、この甘味のある麦粥にも慣れてきた。
「え? 何で?」と言ってベルニージュは首を傾げた。
ベルニージュは眉根を寄せて、変なものを見つけたかのような表情を浮かべている。
「理由を聞きたいのは私の方です。何で勝負しないといけないんですか」
ベルニージュは翡翠の袖で机を押さえ、食事を進めるユカリの方へ身を乗り出して答える。
「勝ちたいからに決まってるでしょ。人は勝つために戦うんだよ。勝利こそが人の生きる道だよ」
「今、食事してるので、少し静かにしてもらっていいですか?」
どちらかというと楽しい会話のある食事の方が好きなユカリも辟易してきた。
「なんでー? もう君の負けでいいから勝負しようよー」
「何を譲ってあげる風な提案してるんですか。勝負もしない内に負けるのなんて嫌ですよ」
ふふふ、とベルニージュは笑う。「どうやら火がついてきたみたいだね」
「ついてないです。放火しないでください」そう言って、ユカリはため息をつく。諦めがついたのだった。「分かりました。じゃあ、何か問題を出しましょう。当たればベルニージュさんの勝ちで良いですよ。勝った方が食事を奢ること。いいですか?」
「いいねー。どんと来ーい。あとベルでいいよ」
ベルニージュはもうほとんど食事を終えていた。最早勝負のためだけにここにいる。
別に勝たせることもない。ユカリは意地悪な問題を出すことにする。内容を限定しなかったのが悪いのだ。えてして勝負は始まる前に終わっているものだ。
「それでは第一問。私の名前は何でしょう?」
「ユカリ!」
ユカリは粥を吐き出さないように堪える。
「何で知ってるんですか!?」
ユカリはまじまじとベルニージュのどんぐり眼を見つめる。
ベルニージュは事もなげに説明する。「宿の旦那さんに聞いたし、マーニルにも聞いた。あと、ユカリの隣の部屋の銅と向かいの部屋の大波と、あと……」
「何で皆が私の名前を知ってるんですか!」
「じゃあ、本当にユカリなんだ」
ユカリは少しむくれて答える。「はい。正解です。おめでとうございます」
「えー」と言ってベルニージュは悪戯っぽく微笑む。「それって本名?」
ユカリは少し目を泳がせつつ答える。
「は、はい。本名です。ベルニージュさん」
前世のだけど、とユカリは心の中で呟く。
「ふーん。変わった名前だね。まーいいや。次の問題どうぞ!」
「まだやるんですか? もうベルニージュさんの勝ちで……」
いや、しかし、とユカリは言い淀む。食事を奢るのは嫌だった。
「張り切ってどうぞ!」
ベルニージュの強い押しにユカリは折れる。
全何問かも決めてはいない。勝ち越したところで勝負を終われば負けはない。
「じゃあ、次は年齢を当ててみてください」
「十四歳!」
「怖いです! 何者なんですか!? 何で私の年齢を知ってるんですか!?」
ベルニージュは木陰に潜む妖精のようにくすくすと笑う。
「今のはさすがに勘だよ。背が高いけど、その割には幼顔かも、と思ってね。いや、でも十四歳なら年齢相応かな。じゃあ同い年だね。丁寧な言葉使うのやめなよ。ワタシもそうするからさ」
「ベル、は元々丁寧に喋ってなかった、でしょ。はい、ベルの勝ち。私は十四歳です。あ、いや、ただの十四歳。ベルも?」
あははとベルニージュは大きな口を開けて笑う。
「ただの十四歳ね。じゃあワタシは推定十四歳ってところかな」そう言ってベルニージュは再び笑う。
ユカリもつられて、しかし控えめに苦笑する。
「ワタシ、ユカリのこと何度か見かけたんだけど、話しかけるきっかけが見つかんなくってね。絶対にワタシから話しかけてやるって思ってたんだ」
「話しかけられるより話しかけたいってこと? 何か違うの?」
「深い理由はないよ。ただの性格。好み。癖。縁起。ワタシから話しかけて、先に名乗るの。早いもん勝ちってね」ベルニージュはしたり顔の笑顔を浮かべる。「さあ、次、どうぞ!」
「まだやるの?」
「勝つまでやるよ!」
「ずっと勝ってるってば」しかしベルニージュの圧の強い笑顔にユカリは降参する。「えーっと。そうですね、じゃあ私の出身……」
「ミーチオンの南の方!」
ユカリは言いかけた言葉が引っかかって出てこなかった。さすがに異常ではないだろうか。ここまで分かるはずがない。
押し黙るユカリにベルは首を傾げる。「どう? 当たり?」
ベルは少し残っていた橙色の卵焼きらしきものを食べている。緑の豆と人参、半透明の玉ねぎが見え隠れしている。
「はい、そうです。あ、いや、うん、そう。何で分かったの?」
ユカリは机の縁に手をかけ、いつでも立ち上がれる態勢を取った。
「やったね。ユカリの言葉の訛りで、そうかなって」とベルニージュは何でもないことのように言う。「丘の響き、大山脈の奏でってところかな。ウリオ沿いのどこかでしょう?」
ベルニージュの言葉に嘘はないようにユカリは聞こえた。
「言葉を聞いただけで、そこまで分かるもの、なの? 出身地まで」
「分かるってほどのものじゃないって。長らくよそで暮らしてたら言葉も変化するからね。出身地まで当てるのは半分以上は勘みたいなもの」
ユカリは素直に感心した。数か月の旅をして様々な言葉、遠い言葉も近い言葉も聞いたが、知らない言葉を何とか覚えようとするだけで精いっぱいだった。自分の訛りには自覚があったが、人間に対して会話の魔法を使うのははばかれたので、出来る限り学ぶようにはしていたのだが、まだまだのようだ。
「これでワタシの三連勝だね。はあ、満足満足」
ベルニージュは匙の先を皿の上で巧みに動かしている。ユカリは、流麗な手足を繰り出す踊り子から目を離せなくなるように、匙を見つめた。それは春先の蜜蜂のように華麗に舞って、そして皿の端に触れる。すると卵焼きは失われていた艶を取り戻し、再び湯気を立て始めた。
ユカリの密かな感動に気にも留めず、ベルニージュは話を続ける。
「それで母なるウリオの御許からミーチオン地方を遠く離れて、遥々アルダニ地方はリトルバルムの街までどういったご用事? 十四歳の女の子が一人で旅する距離ではないよ。一人旅だよね? 連れを見た覚えがないけど」
「うん、そう、だね。どういったご用事かというと、その」
一人旅の嘘は以前から用意していた。事故で家族を失い遠縁を頼りにして、というものだ。しかしミーチオン生まれとばれてしまった以上、いくら何でも遠すぎて不自然な嘘だ。ありえないこともないだろうが、整合性を繕おうとすれば余計に絡まるのは間違いない。それにユカリにはベルニージュを騙しきれないだろうという予感があった。
「ああ、別に話せない事情なら良いよ」とベルニージュは先んじて断る。「ちょっと気になっただけだし、ワタシは楽しいお食事には楽しい会話が欲しいってだけ。ただ、今はこの街も繁盛しているでしょう? 色んな人がこの街に集まってる。だからそれぞれの事情っていうのかな、気になっちゃって」
ユカリは控えめに何度も頷く。
「丁度そのことをさっきまで考えてた。街を訪れる人が増えてる気がするなって。何があるのかベルニージュさんは、知ってるの?」
「うん。明日は年に一度の流星群の日なんだよ。リトルバルムの建国を記念する祝日だね。要するに派手なお祭りをするってこと。だから施政下の街々村々から人が集まってるんだね。あと放浪民族も」
熟した星々が天を行く神々の足元から落ちていく様を想う。《時》にもぎ取られた輝く果実の神秘を求める魔法使いや怪物たちがそれらを運び去っていく。神々はありふれた星々に群がり集る地上の輩を憐れみ、祝福を投げて寄越す。
ユカリは今になって何やら街が浮足立っていたような気がしてくる。開け放たれた窓の外を覗き、秋の風に追われてどこかへ急ぐ通行人を眺めた。
「それは、楽しみですね。お祭りなんていつ以来だろう」ユカリは故郷に思いを馳せる。「祭りといえばセンデラの唄は聞けるでしょうか? 放浪民族の歌は義母に歌うように何度もねだった思い出の歌なんです」
ベルニージュは首をひねる。「センデラの唄? あれは船歌だから、祭りで歌うことはないと思うけど」
「そうなんですか」ユカリは匙を噛んで、少しがっかりする。「ずっと楽しみにしていたんですけど、どこでどうすれば聞けるのか分からなくて」
ベルニージュは何やら茶色の飲み物を飲み干す。
「船に乗せてもらえばいいんじゃない? センデラが渡し船で公に稼ぐのは禁じられてるけど、個人的に頼む分には誰もが利用してるからね。あとはお駄賃を払って歌ってもらってさ」
「なるほど。でも出来れば彼らが日常生活の中で歌っている姿を見たいんですけど」
すると、うふふとベルニージュは笑うのだった。ユカリは何かおかしなことを言っただろうか、しただろうかと思い返すが分からない。
ベルニージュは持っていた椀を置いた。
「ごめん、ごめん。ユカリはどうしても言葉が丁寧になっちゃう癖があるの?」
「え? あっ! いつの間にか。そうですね。何ででしょう。私普段は……。ああ、多分ですけど。私の人生で年上の人と年下の人とのかかわりは沢山あったんですけど、ベルニージュさんみたいな――」
ベルニージュが言葉を繋ぐ。「同い年とは関わり合いがなかったって?」
ユカリは神妙な顔で頷く。
「故郷の村にもいなくて、ここまでの旅でもそういう出会いはなかったです。距離感が分かってないというか。多分そういうことなんだと思います」
「いいよ、いいよ。無理させちゃったね。好きな感じで喋ればいいよ。喋りたいようにね。ワタシもそうするよ?」
そう言われて初めて胸のつかえがとれた気がし、胸がつかえていたことに気づいた。
「はい。ありがとうございます。ベルニージュさん」
ユカリは麦粥が心なしか美味しくなった気がした。