【後日談】其の参
あの時、志津子さんの頬を打つ彼の腕には何の躊躇も遠慮も感じられなかった。まるで物か何かを壊す様に彼は無機質な表情で彼女を打ったのだ
自分の罪に打ちひしがれる彼女の頬を――
一般的に定義される禁忌(タブー)を敢えて踏む事で周りの人間や自分の心を試している、そんな感じがした。
普通、人は曖昧を駆使して人と付き合っていくもので特に日本人はその辺の感性を酷く大事にして来た。
相手の心を慮って対象に対する否定を曖昧に示唆したりするものなのだが彼にはそれは欺瞞であると云わんばかりにその辺の曖昧さを敏感に捉え威圧する様なところが在る。
冷酷な人格、情け容赦などと言う概念など通用せぬ性質の様に見えるの――だが。
だったら何故、彼は事件としては必要の無い彼女を問い詰めたのか――犯人の罪が露呈して、事件としては其処で放っておいても良かったのだ。
しかしあの時、彼が彼女を問い詰めなければあの家族はもう二度と集う事は万に一つの可能性も無かったであろう。
犯人は罪の意識からもう二度と彼女には近寄らなかったであろうし、彼女もまた同じで――
二人の間には最早埋める事の出来ぬ程、溝が深く深く横たわったであろう。
しかし彼女からの告白をさせた事で罪は公に分散され、彼女の想いと母親の想いは交差し、
犯人の贖罪に選択肢が産まれた。集う事の理由が出来たのだ。
無論、最終的に彼女に思いの丈を吐露させたのは私の言葉であろう。
しかし私からその言葉を引き出したのは――
野々村の中のもう一人の「彼」だ――
私が考えに到って彼の顔を見た時、彼はすでに話に関係ない筈の私を見ていた。まるで待つ様に、誘ってでもいる様に――
さあ、僕を論破しろ、二人で彼女を引き裂こう、
それこそがお前と言う駒の役割なのだから――
彼の表情がそう云っていた。
私は彼女を庇い、言葉を出せば出す程に敗北感が喉を絞めていた。
まるで蜘蛛の巣だ。じわじわと、もがけばもがく程、その糸は私を絡め取った。
しかし絡め取られた結果――あの家族には希望が生まれた。
傀儡と化した事を徹底的に悔やむ事が出来たならこんなには苦しくは無い。
何処かでその結果に満足し、その過程さえも肯定しつつある自分にこそ苦しみが在る。
そしてその不満をぶつけるべく、この屈辱を味わわせた本人は消え、残るは姿だけを同じとする押せば流れる様な従順な人格だけだった。
あれ以来、彼は出て来ない。
それと引き換えに――
日常が、まるで覆いかぶさる様にやって来ただけだった。時が経つにつれ、あの一件で見た野々村は幻だったのでは無いか、とすら思えてきている。
平穏に胸を撫で下ろしながらもその平穏に酷く絶望している私も居るのだ。
私は心の何処かでまた逢いたいと想っている。彼こそが私にとって【平穏からの脱却】であり私の無くした記憶を取り戻す鍵であるのだろうから。
だから私は――「焦る事は無いけどね。」――そんな気休めを言う。
「記憶が飛ぶと云うのは酷く精神的に不安になるんですよ、そうも云ってられません」
「焦って治るものでもあるまい。」
「そうですが――」
茶卓に身を乗り出す様に私の言葉を待っていた彼はその身をゆっくりと下げた。瞳が不安に濁る。きちんと正座された膝の上に置いた手がぐっと握られた。
「無くした記憶の欠片は――私の傍にさえ居れば私がきちんと覚えておくから安心し給え」
彼は自らの手で自分の顔を撫ぜながら唸った。
髪の隙間から彼の額の火傷が垣間見えた。
「君は火事か何かに遭った事が在るのかね?」
「え――?」
彼は確認するかの様に自らの額に手を当てて自分の内部に目を向けたのかその視線を虚空に彷徨わせた。
「火事――の記憶も在るのです。断片的に。目の前で轟々と燃え盛る家、倒れていく柱。でも其れが何処なのかは分からないんです。でも皮膚はその時の熱を覚えていて――夢の中の僕の産毛をちりちりと焼く感覚が在って、酷く生々しいのですが――」
「ではその時に?」
「いえ、恐らく別ですね。鏡を見ていて――そこから記憶が無くて、気が付くと僕は床に倒れて、ここが焼けてたんで。」
「――そこまで覚えていて、本当に少しも記憶が残って無いのか?」
彼は返事をせず肩を狭くして「すみません」と尻の座りの悪そうな顔をして謝った。
「責めている訳では無い。無いなら無いで良いんだ。」
「良くは、無いですけどね――」
彼は私の目の前の湯のみをそっと持つと
「冷めてしまいましたね――新しいのをお入れします」と席を立ち、戻ってきてもそれ以上何も云わなかった。
暫くの静寂、少し温まった薬缶の音が室内を洗い、鳥が旋律をつける。
あ、と突然声を出し彼は青年らしく微笑んで
「そう云えばあの件は、結局どうなったんですかね?」と話題を変えた。
「あの件?」
「ほら、教授の話を聞く限り、僕が解き明かした謎の中に一つ…」
「嘉島伸江絞殺か…」
「志津子さんじゃ無いのでしょう?」
「そうだね。でも樋口から聞いた話だから君に漏らす訳には行かないよ。」
「僕は聞いておかないといけない話の様に思うんです。どうやら僕が聞いてる話は乖離した僕も知っているんです。解き明かすに当たって僕が聞いた情報も足さないとそんな話の内容にならないんですよ。」
「如何いう――」
「研究室で蒼井さんを問い詰めたのは僕じゃない、でも僕が聞いた筈の情報――問い詰めるべく材料は持っていた。と云う事は僕の内部で僕として彼は話を聞いていて此処ぞ!とばかりに出てくる、と。」
「――まあ、そうかも知れないね。」
「と云う事は乖離した僕からは何の情報も得れないけど、今の僕からはあっちは情報を得れる訳で――」
「何が――言いたいんだ――」
「どちらの僕でも、僕に関わった話は余す事無く聞いて置きたいんです。是から、何か起きそうな気がするんで――」
馬鹿な事を――と私は笑った。
野々村は笑わず、ただ瞳を不安げに揺らしていた。
「是から何が起きるか知ってるのか?」
思わず真顔になって彼を問い詰める。
「判る事が出来たならこんなに不安では無いですよ。ざわざわと嫌な気分だけしていて――でも僕の中の彼に情報を流しておくべきだと――妙に確信じみた感覚が在ります。」
彼は端正な眉を下げた。
こんな表情をすると彼は酷く童顔で在る事が分かる。
彼の真剣な表情と自分の心の中に居る不安に根負けしてしまい私は彼に話す事にした。
「柏木家の蔵から出てきただろう?あの樟脳の香る死体が――」
「うっすら――覚えてる様な覚えて居ないような――」
「出てきたんだ。で、遺体を回収する時に一緒に彼の遺書も回収した。動揺して逃げてしまったけれど後悔している、と言った内容の文だ。遺書は二枚在って警察も一部の人間だけが二枚共を読む事が出来たらしい。」
「樋口さんはお偉いさんなので?」
「叩き上げだから立場は弱いがな。で、事件に関わる方の遺書が――」
【続く】