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そっか、虐待されてたもんね。
ナディエルはリリアンナの寝室をそっと出て、廊下の端にある小扉を開いた。
その先は、ここの城主ランディリック・グラハム・ライオールの主寝室の真下に設けられた湯室――。邸内で最も湿り気のある空気が静かに漂っている。
階下にある石造りの湯室では、銅製の大釜が静かに湯気を立てていた。
湯の底には、熱を蓄えるための拳大の鉱石――温石が沈められている。サーミア石は鉄よりも熱伝導に優れ、火を落としても半日ほど湯をぬるませない。王都エスパハレで開発された、新しい技術の結晶ともいえる人工鉱石だ。
ナディエルは湯加減を確かめると、壁際の手押しポンプのレバーを握った。レバーを上下に押し引くたび、銅管の奥を伝う湯が低くうねるような音を響かせながら、上階の浴室へと送られていく。
しばらくすれば、リリアンナとランディリックの寝室に面した浴室の蛇口から湯が流れ出し、静かに浴槽を満たしていくことだろう。
***
まだ朝靄の立ち込める外を横目に、ブリジットは屋敷内二階の廊下を静かに歩いていた。いつものように屋敷の見回りを兼ねて、城主ランディリック・グラハム・ライオールのもとへ朝の挨拶に向かう途中だった。
(おや?)
こんな早朝だというのに、湯室から上階へ向けて湯の吸い上げられる微かな水音がする。
誰かが朝一番に浴室へ湯を上げている――。そう察したブリジットは、少し考えて廊下にある小扉を開けると、その先の階段を下りた。
降りた先にある湯室の扉をそっと開けると、リリアンナの専属侍女ナディエルが、銅釜の傍で懸命に汲み上げポンプを操作していた。
「――ずいぶん早いわね、ナディエル」
ブリジットが声を掛けると、きっと作業に夢中で気付いていなかったんだろう。ナディエルがビックリしたように肩を跳ねさせた。
「お、おはようございます、ブリジットさま」
「おはよう。お湯はリリアンナお嬢様のため?」
「はい。お嬢さまに香草の湯をお作りしようと思いまして」
ブリジットが「香草?」と小首を傾げると、ナディエルがそばに束ね置かれたカモミールとセイジへ視線を向ける。
「……カモミールとセイジということは……もしかしてあの子に、とうとう?」
ナディエルはニッコリ微笑んだ。
リリアンナは十六歳になって数ヶ月経つ。
早い娘ならば十二歳くらいでくる初潮が、なかなか訪れないことに、実はブリジットもナディエルも不安を覚えていた。
この屋敷に迎えられたばかりの頃のリリアンナは、まるで小鳥のように痩せこけていた。
その姿を思えば、今日の報せがどれほど嬉しいか、言葉にしなくても二人には分かっていた。
「おめでたいことですわね」
ブリジットの声には、母親のような慈しみが滲んでいた。
「旦那さまにもお知らせせねばなりませんね」
「はい……。ですが、お嬢さまが落ち着かれるまでは、なるべくなら旦那さまからはお声を掛けないようにしていただきたいのです」
「ああ、それは賢明な判断です。わたくしからもそのようにお伝えしておきましょう。あなたがお嬢さまの傍にいてくれて、本当に良かったわ」
ブリジットは柔らかく微笑むと、「お湯が上がったら、すぐにお嬢さまのもとへ」と促し、小扉へと続く階段を上っていくナディエルの背を見送った。
「セドリックにも、わたくしからお伝えしておきますね」
屋敷での報告の流れは、いつも決まっている。
――侍女ナディエルから侍女頭ブリジットへ。そしてブリジットから執事セドリックを経て、最後に城主ランディリックへ。
ブリジットとしては、その折に「男性陣は騒がぬように」と一言添えておけばよいだろう。