香草の香りが、湯気とともにふわりと立ちのぼる。
――それは、少女が女性へと歩み出す朝の香りだった。
ナディエルはリリアンナの寝室隣にある浴室へ戻ると、あらかじめ束ねておいたカモミールとセイジを一握りずつ湯へ落とす。
浴室内に備え付けられた木の杓でゆっくりと湯面をかき混ぜると、泡がひとつ、ふたつと浮かび、香草の香りがふわりと立ちのぼった。
その時、ふと浴室の窓枠へ置かれた小さなガラス瓶に目がとまった。真鍮のふたが施されたその瓶の中では、淡い琥珀色のとろりとした液体が静かに光を反射している。
真鍮の蓋を外すと、甘く澄んだ香りがふわりと立ちのぼった。
――香樹レヴァンの芳香油。湯に一滴垂らせば、林檎に似た甘やかな香気が広がり、心を鎮める効能を持つといわれている。
以前、ランディリックが「リリーの眠りが穏やかになるように」と浴室に置かせたものだ。
ナディエルは瓶を傾け、湯面にオイルをほんの一滴垂らした。
油が光の輪を描きながら広がり、カモミールとセイジの香りにとけていく。
まるで林檎の花の吐息のように、甘く静かな香りが湯気の中でゆらめいた。
それは清らかで、どこか甘やかな香りだった――。
やがて湯気とともに芳香が浴室をへ流れ出し、屋敷の空気そのものをやわらかく染め上げていく。
それは、少女から女性へ――ひとつの季節が静かに移ろう瞬間だった。
***
「いい香り……」
侍女頭のブリジットは、上階からふんわりと漂ってくるその柔らかな香りに気が付いてふと足を止めた。
湯室から離れ、邸内一階の調理場に向かう途中のこと。鼻をかすめた香草と甘い林檎のような匂い。
それは、リリアンナの専属侍女のナディエルが、主人のためにお湯の支度を整えた合図だと自然に分かった。
調理場では老執事セドリックが、シェフたちと朝食の段取りを確認していた。
用があったのはセドリック一人にだったが、この場にいる皆を無視するような非礼はしたくない。
コンコンと壁を軽く叩き、作業中の者たちの注意を引く。その上で「おはようございます」と穏やかに声をかけると、場の空気がやわらいだ。
「おはようございます、ブリジットさま」
シェフたちの声に続けるように、セドリックも挨拶を返してくれる。
「おはようございます、ブリジット。――なにかありましたか?」
さすがセドリックだ。ブリジットがなにも言わずとも、自分に用あっての訪いだとすぐに察してくれた。
「ええ、実は……」
ブリジットは周囲に人目があることを気遣い、言葉を濁して小さく首を傾げた。
「申し訳ありませんが、少しあちらで話せますか?」
セドリックはすぐにうなずくと、シェフらに「では先ほど話したように進めて下さい」と指示を出してから、ブリジットについて廊下へ出る。
人目の届かない場所まで歩を進めると、ブリジットがやっと立ち止まった。
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