テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「ネクタイの結び目に完璧なディンプル、くぼみのことだけどね、これを作るには練習が必要なの」
槙野に説明しながら慣れた様子で美冬はネクタイを結んでいく。
「完璧なディンプルを作るには、親指と中指でネクタイをつまんでひだを作って、人差し指で崩れないように固定しながらネクタイを締めるのよ。こうすれば綺麗なディンプルをつくることができるの」
「詳しいな」
ふふっと美冬は笑う。
その笑顔のあまりの綺麗さに槙野は美冬の顔に釘付けになってしまった。
「まだミルヴェイユがブランドになっていなかった頃はね、紳士服も扱っていたのよ。と言っても私はその時代をあまり知らないんだけど。おじいちゃんの受け売り」
出来た! と美冬はキュッとネクタイの形を整えて襟元を綺麗に直す。
「お前にそれを教えたのがおじいさんで良かったよ」
「え?」
思わず釘付けになってしまった美冬の綺麗さと、綺麗に結ばれたネクタイに槙野は激しく嫉妬するところだった。誰が美冬にネクタイの結び方を教えたのかと考えてしまったからだ。
外だから抑えたけれど、これが人目のない場所だったら思い切り美冬を抱きしめていただろう。
「これ、付けて行ってくれる?」
少しだけ恥ずかしげに上目遣いでおねだりされるのは悪くない。
それに……
(美冬、男にネクタイを贈る意味分かっているのか?)
槙野が把握しているのは『あなたに首ったけ・あなたを束縛したい・あなたを締め付けたい』などというちょっと重い愛情表現なのかと認識していた。
確かに首に巻くもののプレゼントは意味深であり、エロティックだ。
先ほど美冬の薬指に付けた指輪から、首輪と発言した槙野にも美冬は抵抗しなかった。
それに対する回答がこれならば……。
──もしかして俺は首輪をつけ返された? なんて女だよ。
槙野の口元には笑みが浮かんでしまう。
「つけてやるよ。お前の首輪」
一瞬槙野を見てふふっといたずらっぽく笑った美冬は確かに一筋縄ではいかない雰囲気で、槙野はぞくっとした。
「うふふっ、ばれた?」
本気で欲しい。
今すぐにでも押し倒したいくらいに。
槙野の運転で連れて行ってくれた自宅は、極普通の平屋の家で手入れはされているけれど、築年数も経っていそうな古い家だった。槙野の高級車を停めておくことは違和感しかないくらいだ。
「意外か?」
「うーん、まあ……」
門扉の横の呼び鈴を押し
「ただいま」
と言うと、家からはーい! と声が聞こえた。
「にぎやかだから覚悟しろよ」
そんな風に言う槙野は美冬が今まで見たことがないような顔をしている。穏やかな家族に見せる顔だ。
(なによ、そんな顔もできるなんてズルいわ)
「おかえりっ! お土産は?」
玄関先に出てきた女の子は美冬より少し年下に見えた。
妹だろうか、きりっとした目元が槙野に似ている。
「お前お土産優先かよ。お客さんなんだから挨拶しろ」
「わー可愛い人ですねぇ! お人形さんみたい。おかあさーん! お兄ちゃんが女の人連れて来たよ! こんにちは。どうぞ入って?」
明るくて、とても元気だ。彼女の声で奥から人がたくさん出てくる。
「いらっしゃい。どうぞ」
と言ってくれた槙野の父は槙野にとても似ていて美冬は笑ってしまいそうになる。
「祐輔、お父様そっくりなのね。はじめまして。椿美冬と申します。祐輔さんと婚約させて頂いています」
玄関の入り口で深く頭を下げた美冬に家族の目が集中していた。
「美冬さん! よろしくお願いします!」
「お兄ちゃん、どこで捕まえたのこんな人!」
玄関で槙野家の家族に取り囲まれてしまう美冬である。
わあ! 大型犬に囲まれている気分だよ!
槙野家は皆背が高いのだ。
和室に通された美冬は今度は落ち着いた雰囲気にため息が出そうだ。
サッシから見える縁側に日当たりのいい和室、床の間には掛け軸と花が飾られている。
和室の真ん中に大きな一枚板の机が置いてあり、綺麗な座布団が置かれていた。
美冬は槙野とその両親が座ったのを確認してそこにそっと膝をついて座る。
──正しく人をお迎えする家だわ。
にぎにぎしいようにも感じるけれど、客人である美冬を歓迎してくれて、通された和室はきちんとされている。
和室から見える庭もそれは美冬の実家ほど広くはないけれど、きちんと剪定が入って手入れされているのが分かる。
なにもかもをとても大切にしていることが伝わる家だった。
とても温かい雰囲気で、美冬は大好きになってしまったのだ。
「お庭、とても素敵です」
美冬が槙野の父にそう言うと、父はとても嬉しそうな顔をした。その笑顔まで槙野に似ていて美冬は微笑ましくなる。
「本当? とても嬉しいよ」
「ハナミズキですね」
庭に植えられている木を見て美冬は微笑んだ。
「そう。娘の叶愛が産まれた時植えたんだ」
「素敵ですね」
「ピンクと白なのよ。一応紅白でね」
お茶を煎れながら母がそう説明してくれた。
お茶菓子は美冬と槙野と二人で選んだ上生菓子だ。
縁起の良い紅梅の練り切りである。
先程までにぎわしく美冬を歓迎してくれていた兄妹達は部屋にはいない。
それぞれ自室にいるのかもしれなかった。とても行き届いていて、落ち着く。
槙野の父がお茶を一口飲んだ。
「で、祐輔、結婚するって?」
「うん。婚約者の椿美冬さん。美冬のところにもご挨拶に来週行ってくる」
「可愛らしいお嬢さんだが大丈夫だろうかね?」
「どうかな?」
槙野は美冬の顔を覗き込む。
「うちの親はとっても喜んでます」
「そうなのか?」
「ええ。両親は私はもう結婚なんてしないものって思っていたのだもの」
「それはうちもそうだから大歓迎だけれど」
父親が言葉を詰まらせるのに、槙野が口を開く。
「俺が一目惚れしたんだよ。会社に来た美冬に一目惚れして強引に結婚してくれって言った」
「それだけじゃないですよ」
美冬がそう言うと、槙野は美冬の方を見る。槙野の両親も美冬の方を見た。
「祐輔さんはお仕事に関してはうちの祖父が認めるほどの人です。プライベートでは優しくて、よく気が付いてくれて、すごく甘やかしてくれます。強引なだけではなくて頼りがいもあって素敵な人です」
「そうか……」
強引なだけではなかったと知って、父親は安心してくれたようだった。
それに両親への挨拶はまだだが、祖父への挨拶を済ましているのにも一安心したようだ。
槙野家では終始和やかな雰囲気で、わあっと囲まれてしまった兄妹にも後で紹介してもらった。
槙野は三人兄妹の長男で、少し下に弟、さらにその下の末っ子が妹らしい。美冬はその弟と妹の中間くらいの年齢になる。
弟は寡黙な人だったけれど、妹はお兄ちゃん大好きなのを隠しもしない明るい女性だった。
槙野は家でも頼りがいのあるお兄さんと言う感じで、面倒見の良さはこの実家での振る舞いから身についたものなんだろうなあと美冬はしみじみと感じたのだった。
一人っ子の美冬には兄妹がたくさんいる槙野が少し羨ましい。
それを悟られたのかは分からないけれど、帰り際に槙野にポン、と頭を撫でられて
「お前の兄妹にもなるんだからな」
と言ってもらえたのが美冬には何だかとても嬉しかったのだ。