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尽は天莉を抱く腕を緩めると一歩だけ引いて、所在なく胸前で戸惑う天莉の両手を、自らの両掌でそっとすくい上げる。
そうして眼鏡越し、柔らかなまなざしでじっと天莉を見詰めてきた。
レンズを介していても、その視線が熱を帯びているように思えて、天莉はドキドキしてしまう。
触れられた指先から、尽に心臓のざわめきが届いてしまうんじゃないかと心配になって、我知らず手指に力がこもった。
尽から凝視されることが恥ずかしくて堪らないのに、何故か視線を逸らすことが出来なくて、天莉は涙に濡れた瞳のまま、じっと尽を見詰め返すので精一杯。
「天莉。ご両親の前で、キミのことを中身も含めて好きになったと言ったのは嘘じゃない。天莉以上に愛せる女性には出会えないだろうと告げた気持ちも本当だ。俺は……利害とかそう言うのを抜きにして、キミと一生一緒にいられたらと思ってる」
「へっ……?」
驚きの余り間の抜けた声が出てしまった天莉に、尽が握ったままの手指にほんの少しだけ力を込めてくる。
そうして、いつも自信満々の尽にしては珍しく、どこか不安そうな顔をして続けるのだ。
「――当初の約束は反故にしてしまうことになるが……俺からの本気のプロポーズ、もう一度だけ受け直してもらえないだろうか?」
偽装の関係ではなく、天莉と真実の夫婦になりたいと言って、自信なさげに視線を揺らせる尽に、天莉は驚きの余り瞳を見開かずにはいられない。
「あ、あの……私……」
天莉だって、尽に惹かれていると自覚してからずっと、彼とそうなれたらいいと夢見てきた。
でも、そんなことは天地がひっくり返っても起こらないだろうと諦めてもいて……。
突然の尽からの申し出が信じられなくて、すぐには返事が出来ないまま、尽をじっと見上げて固まってしまう。
「……ダメ……か?」
余りに長いこと何も言えずにいたからだろう。
尽の頭とお尻に、へにょりと項垂れた犬耳とふさふさのしっぽが見えた気がしてしまった天莉だ。
「だっ、ダメじゃないですっ。私もっ! 私も……常務とそうなれたらいいなって……ずっとずっと思ってました! だから……」
天莉は尽を見上げて、「こちらこそ、よろしくお願いします」と、今度こそハッキリと告げたのだけれど。
「天莉……」
途端、どこか不満げに眉根を寄せた尽から、「今の言葉、もう一度言い直して?」と仕切り直しを求められてしまう。
天莉は訳がわからないままに尽を見上げると、少し考えてから「私も……常務と本当の夫婦になりたいです」と、より言葉を直接的なものへ変えてみた。
なのに――。
「天莉。お仕置き決定だね」
と踵を返して天莉から離れて行ってしまうとか、一体どういうことだろう?
「あ、あのっ、高嶺常務っ⁉︎」
――私、何かまずいことをしてしまいましたか?
言葉に出来ない疑問とともに、不安になって尽の背中へ呼び掛けたら、尽がはぁーっと大きく溜め息をついた。
「天莉、気付いてないの? さっきからずっと、俺の呼び方が役職名に戻ってる」
そうしてこちらを見ないままにぼそりとつぶやかれた言葉は、明らかに拗ねているのが分かる声音で。
その頭と臀部には、幻の耳としっぽがまだ健在のようだった――。
まるで甘えん坊の大型犬が、飼い主の気を引きたくて目一杯虚勢を張っているみたいに見えて、天莉はハッとした。
「ご、ごめ、なさっ。……私っ」
どうしても意識していないと、天莉は彼のことを〝尽〟と呼ぶことが出来ない。
「あのね、……じ、ん……私も……。私も尽が好き……。尽とちゃんとした夫婦になりたいって思ってる。だから……だからお願い……」
――こっちを向いて?
天莉がしどろもどろ。「尽」と呼び掛けながら一歩前に出たと同時、バッと振り返った尽が、大股に歩み寄って天莉をギューッと抱きしめてきた。
「天莉。今の言葉、取り消しは出来ないよ? 良いね?」
まるで、小さな子供が大切な約束の確認をするみたいに問われて、天莉は思わず笑いが込み上げてきてしまう。
自分より六つも年上で……役職だって常務取締役とか、雲の上のように手の届かない偉い人だと思っていたのに。
高嶺尽という男は、こうして話してみると案外大型犬のように可愛い、どこか少年のようなところを持った人だと分かった。
「高……じ、んこそ、崖っぷちのアラサー女性にそんなこと言って……責任重大だよ? もう逃がしてあげないんだから」
笑いながら尽の腕の中、天莉がそう言ったら、尽がククッと喉を鳴らした。
「望むところだ」
言ってから、「やはりさっき、キミの実家で勢いに任せて婚姻届を出さなくて良かったと心底思うよ」とつぶやいた。
「え?」
突然の告白に天莉が尽を見上げたら、
「俺はね、あの時には既に心変わりしていたんだ。偽装の恋人としてではなく、ちゃんとした婚約者として……それこそ普通の恋人同士が営むように、正規の段階を踏んでキミを娶りたいってね。――それが婚姻届を一旦保留にして持ち帰ってきた本当の理由だよ、天莉」
言って、感極まったみたいに天莉を抱く腕にギュウッと力を込めてくる。
「じ、んっ、痛い……」
ちょっと腕の力が強すぎて、天莉がソワソワと身じろいだら、慌てたように尽が腕の力を緩めてくれて。
「すまない、つい……」
しゅんと項垂れる姿に、尽は冷静そうに見えて、結構直情的な所があるんだなと再認識させられた天莉だ。
さっき尽が、言葉より先に行動へ移してしまって誤解を受けやすいと言っていたのは、そう言うところにも出ている気がして。
そんな尽が、衝動的ではなくちゃんと考えて婚姻届を両親に出さなかったのだと知ったら、何だか物凄く感慨深いではないか。
「でもこれでやっと。次に天莉のご両親にお会いした時こそは、堂々と婚姻届の証人欄を埋めて欲しいとお願い出来るね。――ああ、だけど……その前にキミに指輪を贈らないと」
尽の腕に抱かれたまま、天莉は彼の言葉を夢の中にいるような心地で聞いた。