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「天莉、夕飯は軽めに済ませることにして……今からあのどら焼きを食べるのはどう?」
尽が言っている〝どら焼き〟とは、もちろん『桜猫堂』の〝ラム薫ドラ〟のことだ。
リビング側から見るとシステムキッチンの向こう側にある大きな作業台。
その上に真紅の箱が載っけられているのが見える。
鮮やかな紅の紙に、桜の木と舞い散る花びら。そうしてその花びらと戯れる一匹の三毛猫が描かれた特徴的な包装紙に包まれたそれは、先ほど天莉の実家へ置いてきたものと全く一緒。
箱の中にはラム酒がたっぷり使われたラムレーズン入りのどら焼きが六つ入っている。
「えっ? 今から?」
そんなものを食べたら絶対、夕飯が食べられなくなる。
時刻はもうじき夕方の六時だ。
ここへ連れてこられてすぐの頃――二月の初旬に比べれば大分日の入りが遅くなったとは言え、十八時を過ぎれば外はもうすっかり暗闇に包まれる。
先ほどスマートアシスタントのアレックスがカーテンを閉めてくれるまで、暗くなってきた外に面した窓ガラスが、鏡面になって天莉たちを映し出していた。
天莉は壁に掛けられたシンプルな時計と、リビングの片隅に置かれたままの荷物へソワソワと視線を彷徨わせる。
「でも……パンが」
今日は家に帰り着くまでの道すがら、「長いこと車に揺られて疲れただろう?」という尽の配慮で夕飯作りをしなくていいようにパン屋併設のサービスエリアへ立ち寄った。
荷物の影にちらりと見えている袋の中には、尽と一緒に選んだ惣菜パンや菓子パンが数種類入っている。
(それを食べないといけないのに……)
「どうしても腹がいっぱいで食えそうになければ、パンは明日の朝食にしても構わないだろう?」
さっさとキッチンへ向かう尽の後ろをオロオロと付き従って歩きながら、(いや、そう思うならどら焼きを後回しにしませんか?)と思ってしまった天莉だ。
だけど――。
「ねぇ、天莉。どうしても……ダメ?」
ワインレッドの小箱を手にした尽から、甘えるみたいに振り返り様、そんな風に問い掛けられたら、天莉は『ダメです』と言えなくなってしまう。
「ダメ……じゃ、ないです、けど……」
どうも自分は、尽の大型犬みたいな言動に弱いなと感じてしまってから、天莉はハッとした。
「高……じ、んは……もしかして末っ子さん?」
そう。この感じ。
弟・天城の、甘え上手さを彷彿とさせられて、お姉ちゃん気質の天莉はついついそれにほだされているような気がしてしまったのだ。
「いや? 俺は一人っ子だが?」
なのに、予想に反してそう返された天莉は、何となく当てが外れて拍子抜けしてしまった。
でも――。
考えてみたら幼なじみで腐れ縁で……おまけに尽の専属秘書までこなしている伊藤直樹と一緒にいる時の尽は、兄に駄々をこねる弟という構図に見えなくもない。
「あの……でしたら、伊藤さんと尽は……いつぐらいから一緒にいらっしゃるんですか?」
(もしかしたら二人はかなり幼い頃から一緒にいて、伊藤さんが常務を兄のように甘やかしていたのかも?)
ふと思い立ってそんなことを尋ねた天莉に、「ん? 直樹とは……赤ん坊の頃からずっと一緒に育ってきたけど……。それがどうかしたのかね?」と何でもないことのように尽がさらりと答える。
「えっ?」
それではまるで……。
「お二人はご兄弟なんですか?」
先ほど尽は一人っ子だと言っていたのに、ついそんな問いを投げ掛けてしまった天莉だ。
「ん? ――まさか。俺と直樹は赤の他人だよ?」
そこまで言って、天莉の疑問に思い当たったのだろう。
「あー。まぁ色々事情があってね。直樹のお父上がうちの実家に住み込みで働いてたんだ。その絡みで直樹とは兄弟みたいにひとつ屋根の下で一緒に育った。それだけのことだよ」
と、尽が付け加えてくれて。
それを聞いた天莉はますます訳が分からなくなった。
ただ、少なくとも天莉の実家とは違って、尽の生家は他所の一家が住み込み出来てしまうほど大きなお屋敷だということは理解した天莉だ。
(薄々感じてたけど……尽って……ひょっとしてどこかのお金持ちの御曹司さんとかなんじゃ……)
だとしたら、天莉はとんでもない人のプロポーズを受けてしまったのかも知れない。
そう思ってオロオロと尽を見上げた天莉に、
「まぁその辺の話は俺の実家へ行くまでにおいおい説明するから。――今はとりあえずどら焼きを食う算段をしないか?」
尽があからさまに話題を変えたのが分かった。
***
さあ〝ラム薫ドラ〟を食べようと言う段になって、尽がパントリーの奥の方から持ち出して来たのは何故か日本酒で。
「これは岐阜の方の古酒でね、三年ものらしい。熟成感があって、甘いものにもよく合うそうだよ」
「へっ?」
天莉の中ではどら焼きと言えば日本茶。緑茶もいいけれど渋めのほうじ茶なんかを合わせても美味しいイメージ。
日本茶以外なら、紅茶や珈琲も有りだと思う。
だけど、まさか酒が出てくるなんて思わなかったし、そんな選択肢は端からなかった。
「どら焼きに……お酒……?」
「ああ、結構合うらしいぞ? あと、この酒は燗を付けるとまろみが出るとか何とか。――まぁ全部直樹の受け売りなんだがね」
誰かに教えてもらった知識だなんて、きっと言われなければ分からない。
黙っていてもいいことを、尽はさらりと直樹からの入れ知恵だと告白すると、少し照れたように笑った。
「はぅっ」
その笑顔にまたしてもキュンとして、思わず変な声が漏れてしまった天莉だ。
「天莉? ひょっとして……俺の知識じゃなくてガッカリした?」
途端不安げに眉根を寄せる尽に、天莉はふるふると首を横に振りながら、むしろそんなところがたまらなく大好きです!と叫びたい衝動に駆られる。
元カレの博視は知らないことも知っているかのように大風呂敷を広げて話すところがあるタイプだったので、一見プライドが高そうに見える尽の、こういう素直な一面がすごく好ましく思えてしまったのだ。
「そういうのを隠さないところがじ、んの魅力だと思う……、けどな?」
「それは良かった」
照れ隠し。語尾が疑問形に持ち上がってしまったけれど、尽は満足したらしい。
ホッとしたように肩の力を抜くと、心底嬉しそうに微笑んだ。
(だからっ。その笑顔は反則ですっ!)
天莉はさっきから尽にあてられっぱなしで、正直心臓が持ちそうにない。
***
「そう言えば天莉、確か日本酒はいける口だよね?」
実は天莉、酒はそれほど強くない。
だけど日本酒は割と好きで、時折ほんの少しだけ嗜んでみたりする。
きっと数ある酒類の中から日本酒を選んでいる時点で、その辺も優秀な秘書様からのリサーチで既知なんだろうに、ちゃんと天莉に確認を取ってくれる尽は優しいなと思って。
「えっと……むしろ好きです。そんなに量は飲めませんけど」
気が付けば、天莉は尽と一緒に酒を飲む体でそう答えてしまっていた。
「良かった」
ふっと柔らかい笑みを天莉に向けて、パントリーの片隅から片手鍋を取り出して来た尽に、思わず「私が」とつぶやいてから「あの……でも徳利とかそういうのは……」と、尽を仰ぎ見た天莉だ。
「大丈夫。徳利じゃないが、ここにいいのがある」
酒と一緒に手配したのだと言う長方形の箱を掲げて見せる尽に、天莉はキョトンとして。
「錫製の地炉裏だ」
尽が箱の中から取り出したのは、鈍色に光る金属製の把手付きのコップみたいなもので、注ぎ口がついていた。
「ちろり?」
「ああ。日本酒を温める専用の酒器のことだよ。熱伝導が高いから湯の中へ入れれば、あっという間に燗がつく」
陶器製の徳利より早く温まる上、保温性にも優れているらしい。
「まぁこれも直樹の受け売りなんだがね」
ククッと笑う尽につられて、天莉も思わず笑って。
箱から取り出したばかりのちろりへそのまま酒を注ごうとする尽を止めた天莉は、「一応洗ってから使いましょう?」と尽を流しへと誘った。
新品のものを洗わずに使ってしまおうとする辺りが尽らしいなと思って。
(お仕事は出来る人なのに……生活力とか死ぬほど低めなのよね)
恐らくそう言うことをしなくても生きて行けるような環境で育ってきたんだろう。
天莉は、直樹が尽の世話を焼かずにはいられなかったのを、ひしひしと実感させられてしまう。
ただ、きっと直樹は天莉よりもずっとずっと過保護で、尽にあれこれ教えないまま全て自分が先んじて処理してしまっていたんだろう。
だけど天莉は……もしもに備えて尽自身にもある程度は自力でアレコレ出来るようになって欲しい。