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第二十八話 剣と弓、朝へ還る
朝が来た。
そのことが、今日は少しだけ怖かった。
夜が明ける。
空が白む。
庭の草に朝露が光る。
台所に火が入る。
湯が沸く。
米が炊ける。
いつもの朝だ。
けれど、いつもの朝ではない。
今日、誰かが帰る。
昨日よりも近く。
昨夜よりも確かに。
もう誤魔化せない距離まで、別れが来ている。
衛宮士郎は、台所で卵を割っていた。
横にはイリヤがいる。
今日は、イリヤもいつもより口数が少ない。
ユイとミライは、少し離れたところで調味料を並べている。
桜は味噌汁を見ている。
凛は居間で宝石板を確認している。
メディアは帰還門の最終調整式を書き足している。
そして、縁側にはアルトリアがいた。
朝の光に照らされた彼女の姿は、昨日よりも薄い。
消えかけている、というほどではない。
けれど、世界から少しずつ遠ざかっている。
士郎は、それを見ないふりができなかった。
イリヤが卵を混ぜながら、ぽつりと言った。
「今日は、失敗したくないな」
士郎は少しだけ手を止める。
「大丈夫だ。失敗しても、食べる」
「そういう話じゃないもん」
「そうか」
「うん」
イリヤは真剣な顔で卵を混ぜる。
「今日の卵焼き、セイバーにもアーチャーにも食べてもらうんだもん」
士郎は黙って頷いた。
失敗してもいい。
それは本当だ。
でも、今日だけは上手く作りたい。
その気持ちも、本当だった。
ユイが小さく言う。
「最後のご飯?」
台所の空気が止まる。
ミライがすぐに訂正した。
「厳密には、現界中最後の食事である可能性が高い」
ユイは首を傾げる。
「同じ?」
ミライは少し考えた。
「感情的には、近い」
イリヤは卵を混ぜる手を止めずに言った。
「最後って言うと、終わっちゃう感じがするから」
ユイが彼女を見る。
イリヤは続ける。
「いってらっしゃいのご飯、ってことにする」
ユイはその言葉を何度か口の中で転がすように呟いた。
「いってらっしゃいのご飯」
士郎は小さく笑った。
「いいな、それ」
イリヤは少しだけ誇らしげに言った。
「でしょ」
◆
朝食の席は、静かだった。
静かだが、冷たくはない。
昨日までいた者たちの空席がある。
イスカンダルの大きな笑い声はない。
クー・フーリンの軽口もない。
ギルガメッシュとエルキドゥが並んで座っていた縁側も、今日は少し広い。
それでも、残っている者たちはいる。
アルトリア。
アーチャー。
メドゥーサ。
メディア。
凛。
桜。
イリヤ。
ユイ。
ミライ。
士郎。
それぞれが、目の前の食事へ箸を伸ばす。
イリヤの卵焼きは、今までで一番綺麗に巻けていた。
少しだけ焦げ目があり、甘い匂いがする。
アルトリアが一切れ食べる。
イリヤはじっと見つめていた。
「どう?」
アルトリアは目を細めた。
「とても美味しいです」
イリヤの顔が明るくなる。
「ほんと?」
「はい。昨日よりも、さらに」
イリヤはほっとしたように笑った。
「よかった」
アーチャーも一切れ口に運ぶ。
凛が横目で見る。
「何か言いなさいよ」
アーチャーは少しだけ考えた。
「悪くない」
イリヤが眉を寄せる。
「それ、英雄王と同じ褒め方」
凛が即座に言った。
「もっとちゃんと褒めなさい」
アーチャーは小さく息を吐いた。
「美味い」
イリヤは満足そうに頷いた。
「よし」
ミライが記録する。
「イリヤの卵焼き、アーチャーより美味評価を獲得」
アーチャーが眉をひそめる。
「記録するな」
ユイが真剣に言う。
「大事な記録」
凛は笑いをこらえきれなかった。
桜も、メドゥーサも、少しだけ微笑んでいる。
その笑いの中に、寂しさがある。
でも、寂しさだけではない。
食卓は、まだ温かかった。
◆
朝食の後、凛は宝石板を置いた。
彼女の表情は、もう魔術師のものだった。
ただし、完全には隠しきれていない。
目元が少し赤い。
「帰還門、完全安定。今日なら、アルトリアとアーチャーを安全に座へ帰せる」
士郎は黙って聞いていた。
凛は続ける。
「メドゥーサとメディアは、契約と特殊な術式の影響でもう少し残れる。ユイとミライはこっち側の存在として再構成済み。イリヤも安定率は昨日より上がってる」
イリヤが胸元の豊穣の種を押さえる。
「私は、大丈夫」
メディアが言った。
「ただし、帰還門は何度も開けない。今日の帰還が終われば、門は閉じる。次に開くには、冬木の霊脈をかなり休ませる必要があるわ」
アーチャーが静かに言う。
「つまり、今日が区切りか」
凛はアーチャーを見た。
「……そうよ」
アルトリアは穏やかに頷く。
「分かりました」
士郎の胸が痛む。
分かりました。
その一言を、彼女はいつも通りに言う。
覚悟していたからだ。
帰ることを、受け入れているからだ。
それが士郎には少し悔しくて、同時に誇らしかった。
アルトリアは士郎を見た。
「シロウ。出発まで、少し時間はありますか」
「ああ」
「土蔵へ、行ってもよろしいでしょうか」
士郎は頷いた。
「もちろん」
◆
土蔵の空気は、少し冷たかった。
朝の光が隙間から差し込み、床に細長い線を作っている。
ここで、すべてが始まった。
五年前も。
今回も。
士郎は入口に立ち、アルトリアは召喚陣があった場所に立った。
もう魔法陣は残っていない。
それでも、士郎には見える気がした。
青い光。
剣を持つ少女。
初めて出会った瞬間の、張り詰めた空気。
アルトリアは静かに言った。
「不思議ですね」
「何が?」
「ここへ来ると、初めて会った日のことを思い出します」
「俺もだ」
士郎は少し笑った。
「もっとも、最初の時は何が何だか分からなかったけどな」
「貴方はいつも、分からないまま飛び込んできますから」
「そんなにいつもじゃない」
アルトリアは士郎を見る。
その目が、少しだけ笑っていた。
「今回も、神杯という未知の儀式へ飛び込みました」
「それは……まあ」
「そして、多くの願いを返しました」
士郎は黙る。
アルトリアは続けた。
「シロウ。貴方は、神杯を壊したのではありません。願いを持ち主へ返し、眠る場所を与えた」
「一人でやったわけじゃない」
「はい。だからこそ、貴方は以前より強くなったのだと思います」
士郎は床を見る。
「強くなったのかな」
「少なくとも、一人で背負わないことを学びました」
「まだ、すぐ背負いそうになるけどな」
「それなら、そのたびに誰かが止めるでしょう」
アルトリアの声は穏やかだった。
「凛も、桜も、イリヤも、ユイも、ミライも。きっと」
士郎は頷く。
それは、嬉しいことだった。
誰かに止めてもらえる。
誰かと相談できる。
それは弱さではなく、きっと生きるための強さだった。
アルトリアは土蔵の奥へ視線を向ける。
「私は、この再召喚に救われました」
士郎は顔を上げる。
「セイバーが?」
「はい」
アルトリアは静かに微笑む。
「王としてではなく、アルトリアとして貴方と食卓を囲めた。ランスロット卿と向き合えた。イリヤの卵焼きを食べられた。願いが変わることを、この目で見られた」
彼女は自分の手を見る。
指先が少し透けている。
「これは、私にとって贈り物です」
士郎は拳を握った。
「俺も」
声が詰まる。
それでも言う。
「俺も、会えてよかった。五年前も、今回も。セイバーに会えてよかった」
アルトリアの瞳がわずかに揺れる。
士郎は続ける。
「帰ってほしくないって気持ちは、まだある」
「はい」
「でも、止めない」
「はい」
「ちゃんと送る」
アルトリアはゆっくり頷いた。
「ありがとうございます、シロウ」
その言葉は、静かで、温かくて。
士郎はまた泣きそうになった。
でも、泣くのはもう少し後にした。
◆
一方、凛は屋敷の縁側にいた。
隣にはアーチャーが立っている。
二人とも、しばらく何も話さなかった。
庭には小さな芽がある。
イリヤたちが毎朝水をやっている芽だ。
凛はその芽を見ながら言った。
「私、あんたに言いたいこと、たぶん山ほどあるのよ」
アーチャーは答える。
「だろうな」
「でも、いざとなると何から言えばいいか分からない」
「珍しいな。遠坂凛が言葉に困るとは」
「茶化さないで」
「すまん」
素直に謝られて、凛は少しだけ目を瞬かせた。
それから、苦笑する。
「そういうの、ずるい」
「何がだ」
「最後っぽいからって、急に素直になるの」
アーチャーは庭を見たまま言った。
「最後だからこそ、無駄を省いているだけだ」
「それを素直って言うのよ」
凛は深く息を吸った。
「アーチャー」
「何だ」
「来てくれて、ありがとう」
アーチャーは黙る。
凛は続ける。
「五年前も、今回も。あんたには腹立つことばっかり言われたし、勝手に納得して勝手に遠くを見るし、本当に面倒くさいサーヴァントだったけど」
「感謝の前置きにしては長いな」
「黙って聞きなさい」
「了解した」
凛は少しだけ笑って、それから真剣な顔になる。
「それでも、あんたがいてくれてよかった。士郎のことも、私のことも、たぶん誰より面倒な角度から見てくれてた」
アーチャーは静かに聞いている。
「私、あんたがいなくても前へ進める。たぶんね」
「たぶん、ではなく進める」
「そこは私が言うところでしょ」
凛は少しだけ涙ぐんだ。
「でも、寂しい」
アーチャーの表情が柔らかくなる。
「そうか」
「そうよ」
「なら、それを覚えておけ」
凛は顔を上げる。
アーチャーは言った。
「寂しいと思える出会いは、悪いものではない」
凛は唇を噛んだ。
「ほんと、最後にそういうこと言う」
「無駄を省いた結果だ」
「やっぱり腹立つ」
凛は泣きながら笑った。
アーチャーも、ほんの少しだけ笑った。
◆
昼前。
全員は柳洞寺地下大空洞へ集まった。
帰還門は静かに開いている。
昨日よりも穏やかな光だった。
星の海が、門の奥で揺れている。
送別頁が周囲を舞う。
アルトリアの頁。
アーチャーの頁。
まだ閉じられていない二枚が、ひときわ明るく光っていた。
イリヤはアルトリアの前に立った。
「セイバー」
「はい、イリヤ」
「卵焼き、食べてくれてありがとう」
アルトリアは優しく微笑む。
「こちらこそ。とても美味しかったです」
「次はもっと上手くなる予定だったんだけど」
「その次を目指すことが、きっと大切なのです」
イリヤの目に涙が浮かぶ。
「うん」
アルトリアは膝をつき、イリヤと目線を合わせた。
「イリヤ。あなたは生きることを選びました。それは、とても勇敢な選択です」
「勇敢?」
「はい。生きることは、時に戦うことより難しい。ですが、あなたには支えてくれる人がいます。そして、あなた自身にも歩く力があります」
イリヤは涙を拭いた。
「私、歩く。ちゃんと」
「はい」
イリヤはアルトリアに抱きついた。
アルトリアは少し驚き、それから優しく抱き返した。
士郎はその光景を見て、胸が熱くなる。
ユイとミライもアルトリアの前へ来た。
ユイが言う。
「セイバーは、温かい剣」
アルトリアは少し目を瞬かせる。
「温かい剣、ですか」
「うん。怖くない剣」
ミライが続ける。
「アルトリア・ペンドラゴン。王であり、剣士であり、個人。記録完了。ただし余白あり」
アルトリアは微笑んだ。
「ありがとうございます、ミライ」
ミライは少しだけ嬉しそうに頷いた。
桜もアルトリアへ頭を下げる。
「ありがとうございました」
アルトリアは首を横に振る。
「こちらこそ。桜、あなたの影を抱いて進む強さを、私は忘れません」
桜は目を潤ませながら頷いた。
凛はアルトリアと向き合った。
「セイバー。士郎のこと、見ててくれてありがとう」
士郎が少し慌てる。
「凛」
アルトリアは真剣に頷く。
「彼は、もう一人ではありません。凛、どうかこれからも彼を止めてください」
凛は胸を張る。
「任せなさい。全力で止めるわ」
「頼もしいです」
士郎は複雑な顔をした。
◆
次に、アーチャーが前へ出た。
イリヤが彼を見る。
「アーチャーも、ありがとう」
アーチャーは少し意外そうにする。
「私にか」
「うん。お兄ちゃんを怒ってくれて」
士郎が言う。
「そこ?」
イリヤは真剣だった。
「大事だよ。お兄ちゃん、怒ってくれる人いないと無茶するから」
アーチャーは小さく笑った。
「それは確かに」
士郎は反論できなかった。
ユイがアーチャーを見る。
「アーチャーは、冷たいけど温かい」
アーチャーは眉をひそめる。
「どちらだ」
ミライが補足する。
「表層言動は冷却傾向。内在支援性は高温」
凛が吹き出した。
「すごい分析」
アーチャーは不満げだった。
だが、否定はしなかった。
桜は静かに頭を下げる。
「ありがとうございました。姉さんと先輩を、何度も支えてくれて」
アーチャーは答えた。
「礼は不要だ。私は私の役目を果たしただけだ」
桜は微笑んだ。
「それでも、ありがとうございます」
アーチャーは少しだけ困ったように視線を逸らした。
そして最後に、士郎と向き合う。
同じ顔。
違う時間。
違う後悔。
士郎はしばらく黙っていた。
言いたいことが多すぎた。
怒りもあった。
反発もあった。
感謝もある。
同情ではない。
憧れでもない。
ただ、彼がいなければここまで来られなかった。
「アーチャー」
「何だ」
「俺、まだ間違えると思う」
「だろうな」
「即答かよ」
「事実だ」
士郎は少し笑った。
「でも、間違えたら誰かに止めてもらう。自分でも考える。願いを呪いにしないようにする」
アーチャーは静かに士郎を見る。
「それでいい」
「それでいいのか?」
「完璧な答えなどない。答えを固定するなと、お前たち自身が証明しただろう」
士郎は頷いた。
「ありがとう」
アーチャーは少しだけ目を伏せた。
「礼を言われる筋合いはない」
「それでも、ありがとう」
アーチャーは黙った。
そして、小さく言った。
「進め、衛宮士郎」
士郎の胸が詰まる。
アーチャーは続ける。
「ただし、一人で進むな。そこだけは忘れるな」
「ああ」
士郎はしっかり頷いた。
「忘れない」
◆
帰還門が強く光った。
凛が宝石板を見る。
「時間よ」
その声が震えていた。
アーチャーは凛を見る。
「遠坂」
凛は唇を噛んでいる。
それでも、顔を上げた。
「何よ」
「良いマスターだった」
凛の目から涙がこぼれた。
「遅いのよ、そういうの」
「すまんな」
「本当に、遅い」
アーチャーは少しだけ微笑んだ。
「だが、間に合った」
凛は涙を拭った。
「そうね」
彼女は震える声で言う。
「いってらっしゃい、アーチャー」
アーチャーは静かに頷いた。
「ああ。行ってくる」
その言葉は、別れというより、帰るための挨拶だった。
凛の送別頁が光り、アーチャーの霊基を包む。
彼は門へ歩き出す。
途中で一度だけ振り返り、士郎と凛を見た。
そして、星の門へ消えていった。
赤い外套の残光が、しばらく空中に残る。
凛はそれを見ていた。
最後まで。
◆
アルトリアの番が来た。
士郎の喉が乾く。
彼女は門の前に立ち、皆へ向き直った。
「皆さん。本当に、ありがとうございました」
誰もすぐには答えられない。
アルトリアは一人ずつを見る。
凛。
桜。
イリヤ。
ユイ。
ミライ。
メドゥーサ。
メディア。
そして士郎。
「この戦いで、私は多くを受け取りました。王としてではなく、ただ一人のアルトリアとして」
彼女の身体が淡く光り始める。
士郎は一歩前へ出た。
「セイバー」
アルトリアは微笑む。
「はい、シロウ」
言いたいことは山ほどある。
でも、全部を言葉にできるわけではない。
だから、士郎は一番大事なことだけを言う。
「いってらっしゃい」
アルトリアの瞳が大きく揺れた。
それは、別れではなく。
帰る人へ向ける言葉。
戻る場所がある人へ向ける言葉。
アルトリアはゆっくり頷いた。
「行ってきます」
士郎は泣きそうになりながら笑った。
「また、いつか」
アルトリアは答える。
「はい。また、いつか」
彼女は門へ歩き出す。
一歩。
また一歩。
その背中は、五年前と同じようで、違っていた。
もう、過去をやり直すために歩いているのではない。
王としての罪だけを背負っているのでもない。
アルトリア・ペンドラゴンとして。
受け取った願いを胸に。
彼女は星の門へ入る。
最後に振り返った。
朝の光のような微笑み。
そして、彼女の姿は星の中へ還っていった。
◆
門が閉じる。
大空洞に静寂が落ちた。
凛はその場に座り込んだ。
桜がそっと隣に膝をつく。
イリヤは泣いていた。
ユイも涙を流していた。
ミライは自分の頬に流れる涙を不思議そうに触っていた。
士郎は、立っていた。
立っているだけで精一杯だった。
でも、崩れなかった。
アルトリアは帰った。
アーチャーも帰った。
それでも、彼らがいた時間は消えない。
送別頁が静かに光っている。
アルトリアの頁。
アーチャーの頁。
そこには、まだ余白がある。
士郎はその頁を見つめた。
今すぐ何かを書ける気はしなかった。
でも、いつか書けるかもしれない。
今日のことを。
寂しかったことを。
ありがとうと言いたかったことを。
いってらっしゃいと言えたことを。
その余白がある。
それだけで、少し救われた。
◆
衛宮邸に戻った時、夕方になっていた。
居間は広かった。
あまりにも広かった。
アーチャーが壁にもたれていた場所。
アルトリアが正座していた場所。
そこが空いている。
士郎はしばらくその空席を見ていた。
イリヤが隣に来る。
「寂しいね」
「ああ」
「でも、言えたね」
「ああ」
「いってらっしゃいって」
士郎は頷いた。
「言えた」
ユイが空席を見つめる。
「ここに、いた」
ミライが静かに言う。
「不在の記録。送別済み。感情継続中」
凛が涙の跡を残した顔で言った。
「難しい言い方だけど、その通りね」
桜が台所へ向かう。
「お茶を淹れます」
メドゥーサが静かについていく。
メディアは縁側から空を見ていた。
凛は座卓の前に座り、深く息を吐く。
「士郎」
「何だ」
「明日から、後始末は続くわよ」
「ああ」
「願いの畑も、願録聖堂も、玄礼の監視も、イリヤの安定化も、ユイとミライの再構成も」
「分かってる」
「本当に?」
士郎は少しだけ笑った。
「たぶん」
凛は呆れた顔をした。
けれど、その目は優しかった。
「そこは変わらないのね」
「変わるところと、変わらないところがあるんだろ」
凛は少し驚き、それから笑った。
「そうね」
◆
夜。
士郎は土蔵にいた。
そこにはもう、青い剣士も、赤い弓兵もいない。
ただ、静かな空気がある。
床に座り、士郎は目を閉じた。
思い出す。
アルトリアの言葉。
アーチャーの言葉。
進め。
一人で進むな。
士郎はゆっくり息を吐いた。
「分かってる」
誰に言うでもなく、呟いた。
「分かってるよ」
土蔵の床下で、小さな光が揺れた。
願いの種ではない。
ただの残光。
それでも、士郎には少しだけ温かく感じた。
彼は立ち上がる。
もう、ここで一人で抱え続ける必要はない。
居間へ戻れば、凛がいる。
桜がいる。
イリヤがいる。
ユイとミライがいる。
メドゥーサとメディアも、まだいる。
空席もある。
その空席ごと、明日を迎える。
士郎は土蔵の扉を閉めた。
◆
願録聖堂では、二枚の送別頁が静かに浮かんでいた。
アルトリアの頁には、士郎の文字が一行だけ追記されている。
いってらっしゃいと言えた。まだ寂しい。でも、ちゃんと送れた。
アーチャーの頁には、凛の文字がある。
腹立つ。寂しい。ありがとう。次に会ったら、もっと早く言わせる。
余白はまだ残っている。
願いの畑では、ヘラクレスの守護結界が静かに光っている。
まるで星へ還った者たちを、地の底から見送っているように。
冬木の空には、もう神杯はない。
星がある。
朝へ向かう夜がある。
神杯戦争、第二十八夜。
アルトリア・ペンドラゴンは、王としてではなく、アルトリアとして受け取った時間を胸に星へ還った。
エミヤは、後悔だけではない自分を少しだけ認め、凛と士郎へ言葉を残して帰った。
士郎たちは泣き、笑い、いってらっしゃいと告げた。
別れは終わりではない。
けれど、確かに痛い。
その痛みを消さず、閉じ込めず、燃やさず。
余白に残して、明日へ進む。
第二十九話へ続く。
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ああ、第28話……もう胸がいっぱいです。「いってらっしゃいのご飯」ってイリヤの言葉、本当に優しくて泣けました。アルトリアが「王としてではなく、ただ一人のアルトリアとして」受け取った時間、というのがもう心に沁みます。凛がアーチャーに「寂しい」って言えたのも、士郎が「ちゃんと送る」と言えたのも、みんな確かに成長したんだなって。空席の痛みを抱えながら明日を迎えるラスト、温かくて、でも切なくて。続きもじっくり読ませていただきます。本当に素敵な回でした。