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第二十九話 空席の朝、残された願い
朝は、いつも通りに来た。
それが少し、残酷だった。
昨日、アルトリア・ペンドラゴンは星へ還った。
エミヤもまた、赤い外套の残光を残して座へ帰った。
それなのに、朝は来る。
米は炊ける。
湯は沸く。
味噌汁の香りは台所に広がる。
庭の小さな芽には朝露が乗る。
世界は、誰かがいなくなったことを知らない。
だからこそ、残された者たちは知っていなければならない。
そこにいたことを。
確かに笑って、食べて、怒って、祈って、剣を振るって、弓を引いて、言葉を残して帰っていったことを。
忘れないためではない。
縛るためでもない。
ただ、今日をちゃんと始めるために。
◆
衛宮邸の居間には、空席があった。
アルトリアが座っていた場所。
アーチャーが壁にもたれていた場所。
そこには、誰もいない。
士郎は味噌汁を運びながら、その空席をどうしても見てしまう。
見ないようにする必要はない。
そう思っている。
けれど、見れば胸が痛む。
凛も同じだった。
彼女はいつも通りを装っている。
宝石板を開き、霊脈の数値を見て、今日の予定を口にしようとしている。
だが、時々、視線が壁際へ向かう。
そこに赤い外套の弓兵はいない。
凛は一瞬だけ唇を噛み、それから何事もなかったようにお茶を飲んだ。
イリヤは卵を割っている。
今日は、昨日より少しだけ手つきが慎重だった。
ユイはその横で砂糖の量を見ている。
ミライは記録帳に分量を書いている。
「今日は、誰に食べてもらうの?」
ユイが聞いた。
イリヤの手が止まる。
少しだけ沈黙してから、彼女は答えた。
「みんな」
「セイバーとアーチャーはいない」
「うん」
イリヤは卵を混ぜながら言う。
「でも、いないから作らないってなるのは、違う気がする」
ユイは首を傾げた。
「違う?」
「うん。昨日食べてもらったから、今日は作らなくていい、じゃなくて。昨日食べてもらえたから、今日も作る」
ミライが顔を上げる。
「継続行為」
「そう」
イリヤは少しだけ笑った。
「卵焼きの続き」
士郎はその言葉を聞いて、胸の奥が少し温かくなった。
続き。
それは、今の彼らに必要な言葉だった。
◆
朝食が始まると、やはり居間は静かだった。
メドゥーサは桜の隣に座っている。
メディアは湯呑みを持ち、凛の宝石板を横目で見ている。
ユイとミライはイリヤの卵焼きを真剣に食べている。
昨日までなら、アルトリアが「美味しいです」と言った。
アーチャーが「悪くない」と言い、凛が「もっとちゃんと褒めなさい」と怒った。
今日は、その声がない。
イリヤは卵焼きを一口食べて、ぽつりと言った。
「今日のも、セイバーに食べてもらいたかったな」
誰も、すぐには返事をしなかった。
士郎は箸を置き、静かに言う。
「俺も、そう思う」
凛も目を伏せる。
「私も。アーチャーに、今日の方が美味しいって言わせたかった」
ユイが卵焼きを見つめる。
「それは、残ってほしい願い?」
士郎は少し考えた。
「そうかもしれない」
ミライが言う。
「残留願望。ただし、霊基固定反応なし。安全」
凛が小さく笑った。
「安全って言われると変だけど、まあ、そうね」
桜が湯呑みを置く。
「寂しいと思っても、縛らなければいいんですよね」
メドゥーサが静かに頷く。
「はい」
イリヤは小さく息を吐き、卵焼きをもう一口食べた。
「じゃあ、寂しいけど食べる」
ユイも頷いた。
「寂しいけど、温かい」
ミライが記録帳へ書く。
「寂しさと温かさの同時存在を確認」
凛は少しだけ涙ぐみながら笑った。
「本当に、変な記録ばっかり増えるわね」
士郎も笑った。
笑えた。
それだけで、少し進めた気がした。
◆
朝食の後、凛は全員を居間に集めた。
宝石板には、冬木全域の霊脈図が表示されている。
黒い神杯はもうない。
帰還門も閉じた。
だが、願いの畑と願録聖堂、そしていくつかの霊基反応がまだ残っている。
凛は指で三つの光点を示した。
「今日やることは三つ」
士郎は頷く。
「後始末だな」
「そう。まず一つ目。願いの畑の安定確認。ヘラクレスの守護結界がちゃんと機能してるか見る」
イリヤが顔を上げる。
「私も行く」
「もちろん」
凛は最初からそのつもりだったように頷く。
「二つ目。願録聖堂の送別頁の整理。昨日と一昨日で増えたページを、玄礼の監視下で安全化する」
ユイの表情が少し固くなる。
「私も行く」
ミライも手を上げる。
「私も必要」
凛は頷く。
「分かってる。あなたたち二人は、願録聖堂の余白管理に必要だから」
メディアが三つ目の光点を見て、少しだけ目を細めた。
「最後は?」
凛の表情が変わる。
「三つ目。残存霊基の確認。メドゥーサとメディア、あなたたちの状態よ」
居間の空気が少しだけ重くなった。
メドゥーサは静かに桜を見る。
桜の手が膝の上でわずかに握られる。
メディアは肩をすくめた。
「ついに私たちの番というわけね」
「すぐに帰るって話じゃないわ」
凛は少し早口で言う。
「でも、帰還門が閉じたことで、今後どう維持するかを決めないといけない。無理に残れば負担が来る。桜や葛木先生、冬木の霊脈にも影響するかもしれない」
メディアは静かに頷いた。
「現実的な話ね。嫌いではないわ」
桜は小さく言う。
「ライダーさんは……」
メドゥーサは桜の手を取った。
「サクラ。私はまだここにいます」
「はい」
「ですが、いずれ帰る日が来る。その準備は、少しずつしましょう」
桜は目を伏せた。
「……はい」
士郎はそのやり取りを見て、胸が締めつけられた。
別れは一度では終わらない。
昨日アルトリアとアーチャーを送った。
だからもう大丈夫、とはならない。
何度でも来る。
そのたびに、向き合わなければならない。
でも、もう神杯はいない。
願録も彼らを勝手に閉じ込めない。
だから、今度は自分たちで決められる。
◆
まず向かったのは、柳洞寺地下の願いの畑だった。
地下へ降りる道は、以前よりも安定している。
黒い根はもうない。
壁には淡い金色の筋が走り、ところどころに銀色の羽根のような光が浮かんでいる。
イリヤは小さな包みを持っていた。
今日の卵焼き。
セイバーとアーチャーには食べてもらえなかった分を、ヘラクレスに見せるつもりなのだ。
願いの畑に着くと、中央の守護結界が淡く揺れた。
ヘラクレスの霊基は、巨大な樹影のように畑を覆っている。
イリヤはその前に立つ。
「バーサーカー。今日も来たよ」
光が応える。
イリヤは包みを開く。
「今日の卵焼き。セイバーとアーチャーはもう帰っちゃったから、見せられなかった。でも、ここに持ってきた」
ヘラクレスの守護結界が静かに光る。
イリヤは少しだけ涙ぐんだ。
「寂しいけど、ちゃんと送れたよ。いってらっしゃいって言えた」
士郎は少し離れて聞いていた。
イリヤの声は震えている。
でも、ちゃんと届いている。
「私も、いつか誰かを送れるようになるんだね」
畑の光がゆっくり揺れた。
まるで、巨人が静かに肯定しているようだった。
凛は宝石板を確認する。
「守護結界、安定。願いの種も休眠状態を維持してる」
メディアが結界を見上げ、感心したように言った。
「見事ね。単純な守護なのに、余計な固定がない。近づきすぎた願いだけを静かに眠らせる。あの巨人らしいわ」
ミライが記録する。
「ヘラクレス結界、守護対象を支配せず。保護のみ」
ユイが呟く。
「守るけど、閉じ込めない」
イリヤは頷いた。
「バーサーカーだからね」
その言葉には、誇りがあった。
◆
次に向かったのは、願録聖堂だった。
そこはもう、冷たい白い墓所ではない。
無数の紙片が漂う、静かな書庫になっている。
送別頁がいくつも浮かんでいた。
イスカンダル。
リチャード。
ジャンヌ。
クー・フーリン。
ランスロット。
ギルガメッシュ。
エルキドゥ。
アルトリア。
アーチャー。
それぞれの頁には、別れの言葉と余白がある。
鷺宮玄礼は、聖堂の奥で待っていた。
監視術式の白い鎖が腕に巻かれている。
以前のような冷たさは少し薄れている。
だが、完全に改心したと言えるほど単純でもない。
彼は静かに頭を下げた。
「お待ちしていました」
凛は警戒を解かない。
「送別頁の状態は?」
玄礼は白い紙片を一枚手に取る。
「安定しています。残留願望は霊基固定へ変換されていない。手紙として機能している」
ユイが頁を見上げる。
「この頁、寂しくない?」
玄礼は少しだけ考えた。
「寂しさはあります」
「じゃあ、冷たくない?」
「以前の記録よりは」
ユイは頷いた。
「よかった」
ミライは送別頁を一枚ずつ解析する。
「余白維持、問題なし。追記可能性あり。固定化反応なし」
凛は少しだけ安心したように息を吐く。
「よし。最低限は大丈夫ね」
士郎はアルトリアの頁の前に立った。
そこには、昨日自分が書いた一文がある。
いってらっしゃいと言えた。まだ寂しい。でも、ちゃんと送れた。
その下には余白がある。
士郎は指先でその余白に触れた。
まだ、何かを書く気にはならない。
それでも、書ける場所がある。
それは不思議と救いだった。
凛はアーチャーの頁の前にいた。
彼女の文字。
腹立つ。寂しい。ありがとう。次に会ったら、もっと早く言わせる。
凛はそれを見て、少しだけ顔を赤くした。
「……私、こんなこと書いたのね」
メディアが横から覗く。
「良い頁じゃない」
「見ないでよ」
「見えるところに浮いているわ」
凛は顔を背けた。
だが、頁を消そうとはしなかった。
玄礼はその光景を見ていた。
士郎は彼に言う。
「鷺宮」
「はい」
「あんたは、これを見てどう思う」
玄礼はしばらく沈黙した。
「以前の私なら、不完全な記録だと言ったでしょう」
「今は?」
「今も、不完全だとは思います」
凛の目が鋭くなる。
だが、玄礼は続けた。
「ですが、不完全だからこそ、続きが書ける。不完全さを許容する記録というものを、私はまだ学んでいる途中です」
ユイが言う。
「途中でいい」
ミライも頷く。
「途中状態、正常」
玄礼は少しだけ苦笑した。
「そのようですね」
士郎は彼を見た。
まだ信用しきることはできない。
だが、監視しながらでも、続きを書かせることはできる。
それもまた、願いを固定しないということなのかもしれなかった。
◆
最後に確認したのは、残存霊基だった。
場所は衛宮邸。
庭に簡易の術式陣を描き、凛とメディアが中心に立つ。
メドゥーサは桜の隣にいる。
メディアは自分自身の霊基を確認する側でもあり、術式を使う側でもあった。
凛は宝石板を操作する。
「まずメドゥーサ。霊基は月影層の影響で安定してる。桜との契約がまだ強い。無理に切らなければ、しばらくは残れる」
桜の顔が少し明るくなる。
だが、凛は続ける。
「ただし、桜の魔力だけで長期維持するのは負担が大きい。願いの畑と月影の残滓を補助線にして、負担を分散する必要がある」
メディアが補足する。
「可能よ。桜の影を勝手に燃料にしないよう、本人の同意と休眠周期を組み込めばいい」
桜は真剣に頷いた。
「お願いします」
メドゥーサは桜を見る。
「サクラ。本当にいいのですか」
「はい」
桜は静かに言った。
「ライダーさんに残ってほしいです。でも、それで私が無理をして倒れたら、ライダーさんは嫌でしょう?」
「もちろんです」
「だから、ちゃんと相談して、無理のない形にします。残ってほしい願いを、鎖にしないために」
メドゥーサの表情が柔らかくなる。
「強くなりましたね、サクラ」
桜は少し照れた。
「まだです。でも、少しずつ」
凛はその様子を見て、そっと微笑んだ。
次に、メディア自身の番だった。
凛は宝石板を見ながら言う。
「メディア。あなたは葛木先生との縁と、自前の神代魔術でかなり特殊な状態ね。正直、私でも読み切れない」
メディアは少し得意げに笑う。
「当然ね。私を簡単に読めると思わないで」
凛は半目で見る。
「褒めてない」
「でも、悪い状態ではないのでしょう?」
「ええ。あなたは自分で現界維持の術式を組める。ただし、霊脈に負荷をかけすぎると問題」
メディアは頷いた。
「なら、柳洞寺の霊脈と願録聖堂の余白術式を少し借りるわ。私が管理すれば暴走はしない」
凛がすぐに言う。
「あなた一人に管理させる気はないから」
「あら、信用がないのね」
「ある程度は信用してる。でも、単独管理は危険」
メディアは少しだけ笑った。
「良い判断ね」
士郎はメディアを見る。
「メディアは、残るのか」
メディアは少し考えてから答えた。
「今はね。神杯の後始末はまだ終わっていないし、願いの畑も願録聖堂も、放っておくには危なっかしい。魔女の仕事が残っているわ」
イリヤが言う。
「じゃあ、まだ一緒にご飯食べる?」
メディアは一瞬だけ目を丸くした。
それから、少し照れたように視線を逸らす。
「……まあ、出されるなら食べるわ」
イリヤは笑った。
「じゃあ出す」
メディアは小さく息を吐いた。
「本当に、この家は調子が狂うわね」
◆
夕方。
すべての確認が終わり、衛宮邸には少しだけ落ち着いた空気が戻っていた。
アルトリアとアーチャーがいないことには、まだ慣れない。
きっと、すぐには慣れない。
だが、残っている者たちのこれからは少し見えてきた。
イリヤは豊穣の種を育てながら、少しずつ生者側へ根を張っていく。
ユイは願いを結ぶ力を、燃やすためではなく見守るために学ぶ。
ミライは未定の未来を、記録しながら少しずつ自分で選ぶ。
桜とメドゥーサは、残る時間を鎖にしない形で結び直す。
メディアは後始末の魔術師として残る。
凛は冬木の管理者として、願いの畑と願録聖堂を監視する。
士郎は、そのすべてを一人で背負わないようにしながら手伝う。
簡単ではない。
でも、終わっていないことが、今は少し嬉しかった。
終わっていないから、続きがある。
◆
夕飯の後、士郎は庭に出た。
小さな芽が、昨日よりほんの少し伸びている気がした。
気のせいかもしれない。
でも、そう見えた。
凛が隣に来る。
「士郎」
「何だ」
「明日から、ちゃんと予定組むわよ」
「予定?」
「願いの畑の巡回。願録聖堂の監査。ユイとミライの生活訓練。イリヤの安定化。桜の補助術式。メドゥーサとメディアの現界維持。玄礼の監視。あと、あんたの無茶防止」
士郎は苦笑する。
「最後の、いるか?」
「一番いる」
即答だった。
士郎は笑った。
「分かった」
凛は庭の芽を見る。
「空席、まだ慣れないわね」
「ああ」
「でも、慣れなくてもいいのかも」
士郎は凛を見る。
凛は続けた。
「慣れるまで、何度でも寂しいって思えばいい。そのたびに、送別頁に追記すればいい。そういう余白を作ったんだから」
士郎は頷いた。
「そうだな」
凛は少しだけ空を見上げる。
「アーチャーに、次に会ったらもっと早く褒めさせるって書いたけど」
「ああ」
「本当に会えるかは分からない」
「うん」
「でも、分からないままでもいいって、少し思える」
士郎は静かに言った。
「未定だからな」
凛は笑った。
「ミライみたいなこと言うじゃない」
「影響されたかな」
「この家、変な影響ばっかり増えるわね」
士郎も笑った。
そして二人で、庭の芽を見ていた。
◆
深夜。
願録聖堂の送別頁に、新しい追記が増えた。
士郎の文字。
空席はまだ痛い。でも、今日は卵焼きを食べた。続きはある。
凛の文字。
腹立つくらい静か。でも、明日の予定を立てた。進む。
イリヤの文字。
今日の卵焼きも美味しかった。セイバーとアーチャーにも見せたかった。寂しい。でも明日も作る。
ユイの文字。
空席は冷たい。でも、ご飯は温かい。両方ある。
ミライの文字。
不在を確認。継続を確認。感情処理、進行中。
ページは閉じない。
余白は残る。
願いの畑では、ヘラクレスの守護結界が淡く光っている。
庭の芽は、夜の中で静かに立っている。
神杯戦争、第二十九夜。
アルトリアとアーチャーが帰った後、士郎たちは空席の朝を迎えた。
寂しさは消えない。
けれど、寂しさだけで一日を止めない。
願いの畑は眠り、願録聖堂は余白を保ち、残された者たちはそれぞれの明日へ向けて歩き始めた。
別れの後に残るもの。
それは、空白ではない。
続きを書くための余白だった。
第三十話へ続く。
コメント
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うわ、もう終わったんだ…って感じで読み終えた。朝の描写が静かで丁寧で、空席の重みがすごく伝わってきた。特にイリヤが「昨日食べてもらえたから今日も作る」って言うところ、あれ泣ける。寂しさと温かさが同時にあるって、ユイが言ったのがそのまんま刺さった。続きを書くための余白って言葉、すごく好き。次も読みたい。