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ほむぺ⋆*
363
かんな
1,938
その時――。
カチャリ、と静寂を破って隣の網戸が開く音がした。
「こんばんは」
「あ……こんばんは、黒瀬さん」
瑞樹はいつものように手すりに長い腕を預け、薄暗がりの中で柊吾の顔をじっと見つめると、わずかに目を細めた。
「どうかしましたか? 少し、考え込んでいるような顔をしていたので」
「……そんな顔してましたか」
「ええ。何かありましたか?」
眼鏡の奥の眼差しが、どこまでも優しく柊吾の体温を確かめるように注がれている。
柊吾は少し迷ってから、今日近藤に提案されたショートステイの話、そして昼間に連絡帳で読んだ真理子の言葉を、つっかえつっかえぽつぽつと打ち明けた。
瑞樹は途中で口を挟むことなく、夜風に髪を揺らしながら、ただ静かに頷いて聞いてくれた。柊吾の話が途切れると、瑞樹はそっと息を吐き出し、静かな声で尋ねた。
「……それで、柊吾さんはどう思いましたか?」
「分からないです。母さんが施設に泊まるって……なんだか、僕が逃げてるみたいで」
「逃げる、ですか」
「はい。母さんのことを押しつけて、自分だけ楽になろうとしてるみたいで……。短冊にまで僕のことを書いてくれてる母さんを置いて、僕だけが休むなんて……」
柊吾は抱えた自分の腕にキュッと力を込めた。自分の不甲斐なさと罪悪感で、目元が熱くなってくる。
瑞樹はしばらく黙ったまま、空に浮かぶ天の川へと視線を遣っていた。それからふっと柔らかく目を細めると、視線を柊吾へと戻し、手すり越しに身を乗り出すようにして静かに告げた。
「柊吾さん。休むことは、逃げることじゃないです」
「……」
「あなたが限界まで倒れてしまったら、お母様はもっと悲しまれますよ。お母様が短冊に込めた『元気に過ごせますように』という願いは、あなたが無理をしてボロボロになることじゃないはずです」
「そう、でしょうか……?」
「そうですよ。柊吾さんが休むことで、また明日も真理子さんの隣に立てる。それが、一番大切なことなんじゃないですか? 真理子さんだって、疲れた柊吾さんより、元気で輝いているあなたを見る方がずっと嬉しいと思いますよ」
「……黒瀬さん」
「はい」
「なんで、そんなに……」
言いかけた言葉を飲み込んで、柊吾は視線を夜空に逃がした。
(なんで、そんなに優しいんですか。なんで、僕が欲しい言葉を全部知ってるみたいにくれるんですか)
溢れ出しそうな問いかけを必死で喉の奥に押し戻す。
夏のぬるい夜風が二人を吹き抜け、雲の切れ間に見える星々をかすかに揺らしていた。
瑞樹は手すりに腕を預けたまま、夜空を見上げる柊吾の横顔を、どこか愛おしそうにじっと見つめていた。そして、ぽつりと落とすように呟く。
「……柊吾さんは、いつも誰かのためにばかり一生懸命ですよね。お母様のため、周りのためって……自分のことは全部後回しにして」
「え……」
「だから、俺の前でくらいは、少し力を抜いてほしいんです。弱音を吐いて、甘えてくれたら嬉しい」
眼鏡の奥の瞳が、夜風に揺れながら柔らかく細められる。
「それに……そうやって一生懸命な柊吾さんとこうして話していると、なんだか俺まで救われる気がするんですよ。……すごく、落ち着くんです」
「っ……」
「仕事で疲れて帰ってきても、ここで柊吾さんの顔を見て、言葉を交わすと……それだけで心が軽くなる。俺にとってこの時間は、一日のうちで一番……心地いい時間なんです」
告白にも似たまっすぐな言葉。
ドクン、と胸の奥で心臓が大きく打ち鳴らされた。全身の血が逆流するような熱さが押し寄せ、頭の中が真っ白になる。
(……あ、ダメだ)
もう、何の言い訳も成り立たなかった。「感謝」でも「近所の頼れる人」でもない。自分を救い、優しく包み込んでくれるこの男に、自分は決定的に惹かれている。
(……やっぱり、好きなんだ。僕、黒瀬さんのことが……)
恐れていた自覚が、濁流となって柊吾の全身を駆け巡る。真っ赤に火照っていく顔を必死に隠そうと、柊吾はきゅっと唇を噛み締めて下を向いた。
「……柊吾さん?」
「あ……っ、すみません、なんでもなくて……っ」
動揺を隠しきれない声に、瑞樹はどこか満足そうに、けれど怪しく目を細めて微笑んだ。
「ふふ、ならいいです。……それじゃあ、俺はお風呂に入ってきますね。おやすみなさい、柊吾さん」
「あ……はい、おやすみなさい……」
カチャリ、と網戸が閉まり、隣の気配が遠のいていく。
一人ベランダに取り残された柊吾は、へたり込みそうになる脚を必死にこらえながら、手すりを固く握りしめた。夜風がいくら吹き抜けても、胸の奥で激しく打ち鳴らされる心臓の音と熱だけは、いつまでも止んでくれなかった。
コメント
1件
うわ……もう、この空気感がたまらないです🥀 柊吾くんが「逃げてるみたい」って言うところ、すごく胸が締め付けられました。自分のこと後回しにするタイプって、読んでてこっちまで苦しくなるけど、瑞樹さんが「休むことは逃げじゃない」って言い切ってくれるのが本当に救いで…… それに「俺まで救われる」って言葉、重いようでいてすごく優しい。柊吾くんが自覚しちゃった瞬間の動揺、良かったなあ……。 この二人の距離感、ゆっくり縮まっていく感じが好きです。続き、気になります。