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卵山の森とナボーンの街の境の辺りに作られた塚の前にベルニージュはやってくる。
もはや秋風とも言い難い刺すように冷たい風に身を震わせて、塚の前のユカリと同様に膝をつき、祈りを捧げる。ユカリの方は一心に祈っているという様子だ。
今回の件で、犠牲になった者は少なくなかった。まだ埋葬されていない者も多く、この塚は仮に設えられたものだ。いずれ全ての犠牲者が埋葬されたのち、街の広場に英雄の青銅像と共にその名を記した石碑が設置されるのだという。
ベルニージュの顔をちらりと見て、ユカリは眉根を寄せる。「ベル、どうしたの? 気分が悪い?」
ベルニージュは安心させるように微笑みかける。あまり慣れない行為だ。
「そんなことないよ。それよりユカリ、その格好寒くないの?」
狩り装束を膝まで捲り上げたその姿は、ベルニージュからすれば正気の沙汰とは思えない。
「別に、平気。雪が降るまでは気にならないよ」
「ワタシには信じられないよ。まあ、平気ならいいんだけど。ところで新しい魔導書の題名をまだ教えてもらってなかったね。なんて書いてたの?」
ベルニージュがユカリの合切袋に目を向けると、ユカリは慌てた様子で答える。
「え? 魔導書? えーっと、ちょっと待ってね」そう言ってユカリは合切袋から新たに完成させた魔導書を取り出し、中身をぱらぱらと開き、一つ一つ読み上げる。
『口笛吹きの乙女の伝承』
『彷徨える王セビシャスの物語』
『籠り姫の花の歌』
『蛻の騎士の伝説』
『逆さ道化師の冒険譚』
『月を恐れる王の子の逸話』
『セルデュア叙事詩』
ベルニージュも隣で魔導書を覗き込みつつ言う。「ああ、そうじゃなくて。完成したら表紙ができるでしょ? そっちの題名だよ。『我が奥義書』に『咒詩編』の方の題名ね」
「そっちか。そっちね。えーっとね」ベルニージュには解読できない文字を、ユカリは一心に見つめている。「ええと、これは、ううんと」
「読めないの?」
「いや、読めるよ? 解読というか翻訳というか、をしているところ。つまり分かりやすい言葉というか」
「へえ」
ユカリが嘘をついているのは間違いないが、どんな嘘なのか分からない。知られてまずいことがあるとは思えないくらい、今まで魔導書の中を読み聞かせてもらったのだ。何を隠しているのだろう。
「これはだね。『七つの災厄と英雄の書』って感じかな」
「ふうん。そう書いてあるの?」
「うん。そう書いてある」
ユカリは一心に魔導書を見つめている。つまりベルニージュと頑なに目を合わせない。
そこへ足音が聞こえ、振り返る。山彦と呼ばれた少年と、魔女シーベラだった。
魔女シーベラは改心した、というベルニージュの言葉を、ユカリも初めは半信半疑の様子だったが、今では心から信じているらしかった。
「もう行くんですか?」とユカリは尋ねる。
「ああ。息子ジェドにも、それと嫁のシイマにも早く会って祝福したいからね」とシーベラは答える。
「良かった」ユカリはにやりと笑みを浮かべる。「エベット・シルマニータの伝承みたいな嫁姑争いはしないでくださいね」
魔女シーベラは快活に笑う。
「もちろんだよ。仲良くやっていくさ。この子とも一緒にね」少年の方へ三人の女の視線が注がれる。
「ただ、もしかしたらこの街に住み続けるかもしれない」シーベラは少年を見下ろして言う。「この子がサクリフから離れたくないと言うのでね」
ユカリはきょとんとして、少年からシーベラへ視線を移す。
ベルニージュは咎めるようにシーベラを睨みつける。
「ああ、ほら、なんだ」シーベラは目線を泳がせて言うべき言葉を探す。「サクリフは、怪物を倒した英雄の名だよ」
「ああ! 蛾殺しの英雄! サクリフさんって言うんですね!」声を弾ませて言ったユカリは目を輝かせ、次にその瞳を曇らせる。「話に聞きました。非業の死を遂げたとか」
「うん。それで、少年は傷ついている。せめてサクリフの墓のそばにいたいと思うのも無理からぬことさ」
再びベルニージュはシーベラを睨みつける。
それに気づいたシーベラは話を変える。「そうそう。この子の名前をどうしようか、ずっと考えていたんだ」
「え? 名前、ないんですか?」とユカリは驚く。
「あるにはあったらしいが、自分を捨てた親のつけた名前など名乗りたくないとのことだ」とシーベラが説明する。「僕も、そのことについては尊重したいが、どのような名前をつけたものかな、と」
「なるほど。さもありなんですね」とユカリは空を仰いで考えながら言った。「それならここで付けられていたあだ名をそのまま名乗るのはどうですか? なかなか素敵だと思いますけど」
「あだ名?」と少年は不思議そうに呟く。「そんなの付けられてたの?」
ユカリは頷き、腰を屈めて少年に目線を合わせ、微笑んで言う。「山彦っていうんだけど、どうかな?」
「セルデュア」と少年は語感を確かめるように囁く。「まあ、悪くないんじゃないかな」
「生意気だなあ」と言ってユカリがセルデュアの額をつつくと、小さな風が少年の顔に吹きつけた。
セルデュアは驚きつつも、目を輝かせて、もう一度するようにせがむ。ユカリは、グリュエーはさらに強い力で吹きつけてセルデュアを驚かせる。
ユカリとセルデュアと不思議な風が楽し気に走り回っている間に、シーベラがベルニージュに囁きかける。
「このことを話さなくて良いのか? ベルニージュ」
「そうすべきだと思う?」とベルニージュはシーベラの横顔に視線を向けて答える。
「ああ、僕は、いや、僕ならば、きっとそう思うだろう」シーベラは走り回るユカリとセルデュアに微笑みを向けている。「同じ立場であったならそうして欲しいと思うだろう。それにユカリならきちんと背負って生きていくとも思う。君はそう思わないのか?」
「ワタシもそう思うよ」ベルニージュもまた、はしゃぐユカリとセルデュアを見つめる。「でも、背負わなくて済むなら背負わないに越したことはないと思う」
「はっきり言わせてもらえば」と言いつつもシーベラは少しだけ言い淀む。「こんなやり方は間違っていると思うね、僕は」
「正しいかどうかは、さして重要じゃないんだよ」とベルニージュははっきりと言う。
シーベラは観念した様子でため息をつく。「なるほどね。いいだろう。いずれにせよ、僕にどうにかする力はない。ユカリは君に任せるよ。彼、セルデュアのことは任せてくれ。それと一つ聞きたいんだが、シーベラとやらは大丈夫なのか?」
「うん。そっちも大丈夫」ベルニージュは胸元の、蝶を象った蝋の下げ飾りを持ち上げる。「この中にシーベラの記憶を封じ込めた。これを解放しない限り、君がその肉体から追い出されることはないから安心して」
そのためにユカリが怪物の元へ行くのを止めることもせず、ベルニージュは全ての蝶、全ての記憶を回収したのだ。
「記憶は無数の蝶だって言ってなかった? 見たところ一頭しか入りそうにないが」
「本物の蝶じゃないからね。魔法使いなら何とかするし何とかなるんだよ。苦労はしたけどね」と言って下げ飾りを離す。「じゃあ、よろしく頼んだよ、サクリフ」
「についてのユカリの記憶だけどね」
ベルニージュはユカリの呼ぶ声に惹かれる蝶のように軽やかに駆けて行く。そこには後悔や罪悪感など微塵も感じさせない。