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蓮司は、何も変わらない顔でやってきた。
教室の空気を裂くような軽やかな足取りで、
誰かの机をまたぎ、女子の髪を軽くつまんで茶化し、
教師の死角を狙って遥の席の背後に立った。
「──おい、おねむ?」
蓮司が遥の首筋を指先でなぞる。
「……ん」
返事は曖昧だった。
昨日までの遥なら、少しだけ顎をあげて、首筋を晒すように仕向けたかもしれない。
けれど今日の遥は、微かに肩をすくめた。
ほんの、わずか。
でも蓮司は、見逃さなかった。
「……機嫌悪い?」
唇が耳元に近づく。
わざと息をかけるように囁いてくる。
「もしかして、昨日のキス、気に入らなかった?」
「……別に」
遥の声は、いつもより少し掠れていた。
自分でも気づいていた。
日下部の言葉が、身体の内側に、何か濁った水のように残っている。
(“壊れててもいい”って……)
思い出してはいけない。
あんなもの、ただの気まぐれかもしれない。
信じて、また砕かれたらどうする。
蓮司の指が、シャツの裾を捲ろうとする。
教室の死角。誰にも見えない位置。
いつもなら──
ここで目を伏せ、受け入れる演技に入る。
でも今日は。
「やめろよ」
声が出た。
小さな、乾いた声。
ただ、それだけで空気が止まった。
蓮司の指が止まる。
沈黙。
誰にも気づかれない静かな膠着。
「……どうした?」
蓮司の目が、ふっと細くなる。
そこには、心配も驚きもなかった。
ただ──「違和感」があった。
遥は目を逸らした。
心臓が嫌な音を立てている。
(何してんだよ、俺)
(バカみたい……)
(昨日、ちょっと誰かに“言われた”だけで……何が変わったんだ)
蓮司の手が、首の後ろにまわり込む。
力は、優しい。だが、それが逆に怖い。
「ねえ、遥。……いつもどおりでいいじゃん?」
耳元で囁かれる。
「……どうでもいいんだろ? 俺のすることなんて」
その言葉に、遥の心が小さく反応した。
“どうでもいい”──それは、遥が自分自身に言い聞かせてきたことだった。
“俺はどうなったっていい”
“壊されても、利用されても、そっちのほうが楽”
けれど。
(違う……)
(昨日、あいつ……“壊れてても、おまえがそこにいるなら”って……)
(あれは……あれだけは、嘘じゃなかった)
蓮司の目が、遥を覗き込む。
「遥、どっか行ってた?」
「……なに」
「いや、雰囲気。……“よそ行き”になってる」
遥の喉が詰まった。
そうだ、蓮司は「演技のズレ」に敏感だった。
遥がほんの一歩でも、いつもの“壊れた恋人役”からはみ出したら、すぐ嗅ぎ取る。
(まずい──)
(演技に戻らなきゃ……ちゃんと、“蓮司の遥”をやらなきゃ)
「……なに言ってんの。別に、何も変わってない」
笑う。
口角だけ上げる、乾いた笑み。
作り慣れた“安心の仮面”。
でも──その笑みは、いつもよりわずかに遅かった。
蓮司の目が、その“ラグ”を見逃すはずがなかった。
「……ねえ、遥」
「最近、誰かと話した?」
その言葉に、遥の肩がほんの少し、揺れた。