ずっと自由に、永久的に、傍にいてくれる存在がいるだけで生きていけるのだと思っていた。けれど、友人と離れてから、ロボットと会話をしても苦しいままだった。
それは、私が人に愛されることを望んでいたからだった。
書斎に戻ってから、私は彼の傷に包帯を巻いていた。
手の甲の傷も、怪物とやりやったような切り傷も、全て治療していた。
幸い、どれも深い傷は無いが、消毒液が痛むのか。
彼は、歪な表情をしていた。
「まだ、手の甲は痛む?」
「ええ、少しだけですが」
私は治療しながら、自分の甲を見る。
ロイから受けた傷。
痛みはなく、キリンさんの後に傷を受けたというのに、跡形もなく、完治している。
それはきっと、ここが夢の世界であるからだろう。
ナイフを突き立てられた瞬間でさえ、痛みを感じなかった。
その現実が、私を孤立させた。
肩に乗っている蝶も、喋る花のローズも。
今、目の前にいる彼さえも、夢である。
彼らとは、生きている世界線が、初めから違っていたのだ。
「何か悲しい事でもありましたか?」
「えっ?」
「顔に出ていますよ。そういう所は、私と同じなんですね」
彼は、私の顔を覗き込みながら悪戯っぽく微笑んでいた。
「そんなことないよ。私は、元気だよ」
「そうは…見えないですよ」
キリンさんは、いつの間にか私の手から治療道具を片付けていた。
私はずっと考えていた。
夢日記を読んでから、ここに来るまでずっと。
悲しい顔をしているのかは分からない。
ただ、今までのように、何も知らないままで、この世界に居れたら良かったと思っていた。
「キリンさん」
彼が離れようとする背中を引き止める。
「はい、どうかしましたか?」
キリンさんは振り返ると、いつもとは違う私の雰囲気に、真っ直ぐ見つめ返す。
「いくつか知りたいことが出来たので、質問をしてもいいですか。キリンさん自身に」
彼は、私の言葉に顔を強ばらせていた。
私はそんな彼を、安心させるように、できるだけ優しさをまとった声でいう。
「大丈夫。悲しい顔させないよ。もう、問い詰めることはしないから」
私の好奇心が勝った時、キリンさんは悲しい顔をする。
どうして、いつもそんな顔をするのか、理由が知りたかった。
でも、もう、その理由ですら
今の私には分かっていた。
「答えを知らなければ、何も言わなくていいよ」
だって、この世界は、私が見ている明晰夢の中だから。
ここでの全ては、私自身が創り出しているのだから。
答えは、私にしか知らないはずなのだ。
キリンさんはその一言が要だったようで、固くなっていた表情を緩ませる。
「分かりました、いいですよ」
キリンさんは、部屋の中央に鎮座している対談用テーブルへと、手招きをする。
「こちらで話しましょうか」
キリンさんと私は、席に着く。
改まった緊張感に、身が引き締まる。
「珍しいですね、こんな対談をするのは」
キリンさんは、私とは対照的に緩やかなままだった。
私はこれから告げることに、どうしても笑顔にはなれなかった。
途端、テーブルにクロスが、一瞬にして机全てを白に覆う。
クロスが素早く引かれると、机上には紅茶が置かれていた。
これが、キリンさんの最後の手品かもしれないと思った。
「せっかくの機会です。喉が乾いて、言葉に詰まってはいけませんから」
目の前に広がる温かな色味の紅茶。
花のような香りが鼻を掠め、精神を落ち着かせていく。
キリンさんなりの気遣いなのだろう。
その優しさが身に染みると共に、僅かなほろ苦さが身体に残るようだった。
「ありがとう、キリンさん」
「いえいえ」
私は、ゆっくりと喉に流し込んだ。
キリンさんとの出会いから、今までの思い出。
その一つ一つを、本棚にしまうように整理する。
本当に私が、キリンさんに聞きたかったことを探し出す。
「それじゃあ、まず最初に」
「はい」
「キリンさんは私と一度、どこかで会っているよね?」
キリンさんは、私の顔色を伺う。
「思い出したんですか?」
「ううん、正確には思い出していないと思う。だた、私の夢日記で、似たような世界が書かれていたの。それが、キリンさんのいた世界で間違いないのかなって」
「夢日記ですか……」
夢日記の世界では、金色の蝶。喋る花。
そして、私だけを見てくれるという人物が出ていた。
今思えばそれは、キリンさんのことだと思う。
「貴方が先程読んでいた本。あれは、もしかして、貴方自身のものだったということですか」
「そうだよ、あれは私の夢日記だった」
私が書いた記憶のある夢日記。
内容も、この世界のことだった。
「私、この世界を知ってる気がするの。もしかしたら、キリンさんに会っていたのかもしれないと思って」
彼は、今までの全てを振り返るように、そっと頷く。
「はい。実を言うと、貴方とは一度会ったことがあります」
キリンさんは、記憶を懐かしむように微笑む。
「私は長い間、この世界を生きています。そのため、ほとんどの事は忘れてしまいました。ですが、なぜか貴方のことだけは覚えておりました」
キリンさんの卓上に積み上げられた、資料のタワー。
そんな月日の中で、私との出会いは覚えていたなんて。
普通ならばそんなことは、空想の話だとしか思えない。
どうして、彼が私を覚えているのか。
ローズとは違う特別扱いをするのか。
その答えも、今の私には理解出来た。
「じゃあ、次の質問ね」
「はい、大丈夫ですよ」
「キリンさん自身は、どれくらい自分の事を理解してる?」
「私のことですか?」
キリンさんは、予想外の質問だったのか、目を見開いている。
「そう、わかる範囲でいいよ。キリンさんのこと、教えて欲しいの」
この答えが、私の明晰夢を見たがった理由に繋がるんだ。
キリンさんの役目は、私が望んだ設定だから。
「はい。私は手品師として、来訪者を導くものとして、この世界に存在しています」
ローズの言った通りだ。
彼も理解していたのだ、と思う。
私が知りたいと思っても、教えてくれなかったこと。
ローズというかつての来訪者からではなく、本人の口から直接聞きたかったと思う。
そして今、見えなかったものが見えるようになってからではない。
その瞬間で、教えて欲しかったのに。
「私は、貴方を含めた来訪者を既に何人か、導いています」
キリンさんの日記を思い出す。
最後の来訪者と書かれていた。
つまり、ローズを含まめた来訪者が、数人いた事が事実。
「あとは……」
キリンさんは、そこまで言うと黙り込んでしまう。
悲しい顔では無いが、思い詰めた表情をしている。
「無理しなくてもいいよ?」
今の段階で、キリンさんの役目は知ったことがそのままだった。
私が望んだ答えとは少し、違うけれど、きっと私が考えている通りなのだろう。
彼は、私の言葉が聞こえていないのか、虚空を見つめている。
私は、彼の言葉を待った。
「私は、何かに溺れたかったのかもしれません」
「溺れる?」
予想外の答えだった。
日記でもローズでさえも知らない何かが、そこにあった。
彼の瞳が、私を捕らえる。
「私は、今とは違う何かになりたかったのです」
取り憑かれたように、力強く言葉を紡ぐいキリンさん。
その目は、見たことのない表情が浮かんでいた。
「貴方を守り、傍にいることで、私は満たされていました。でも」
そこまで言うと、後悔するように、その先を紡ぐことはなかった。
「どうしたの?でも?」
キリンさんは、下を向いて言葉を考えているようだった。
「言いたいことは言えたの?」
私が言葉を重ねても、下に沈んだ彼の目を救うことはなかった。
私が夢に目覚めているはずなのに、まだ知らないことがあるのだと気付いた。
埋まらないパズルピースを見つけてしまったようなむず痒さに、私の好奇心が駆り立てられる。
けれど、キリンさんの悲しい顔が脳裏に浮かんだ。
それが、私の湧きあげる好奇心を消化させる。
これ以上聞いても、また悲しい顔をさせてしまうのだと。
「もう、いいよ。それ以上、言わなくて」
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