余命宣告。初恋の人との再会。
映画や小説の中ではドラマチックに描かれることも、実際に自分の身に起こってみると案外あっけないものだ。
「じゃあ、お大事に」
「あ…」
返事をする間もなく、海生は病室のドアの前を通過して俺の視界から消えてしまった。そのそっけなさもまた懐かしくて、感動すら覚えてしまう。
いやダメだ、感動している場合じゃない。
「ま、待って!」
ふらつきながら、なんとかドアまでたどり着いて呼び止めた。久しぶりに声を張ったせいで、加減がわからなくて思ったより大きな声になってしまった。
「何?」
「あ…えっと」
どうしよう。
衝動的に呼び止めてしまったが、たいして仲が良くもない元同級生と病院で再会なんて普通に考えて気まずい。海生からしたら、さっさとこの場から立ち去りたいところだろう。
喉まで出かかった俺の身勝手な願望は飲み込んで、このまま別れたほうがいい──
「用がないなら、もう行ってもいい?」
「ある」
──はずなのに。
頭で考えるより先に答えてた。
「あるよ、用。海生ともっと話したい」
「話したい…だけ?」
海生の顔に怪訝そうな色が浮かぶ。それでも一度言葉にしてしまった願望は、もう後戻りできないほどに強くなっていた。
「だめかな。もし今日は時間がないなら、今度でもいいんだけど」
「時間は大丈夫だけど…」
「ならいいじゃん。帰る前に寄ってよ」
「…わかった。1時間くらいかかると思うけど」
そう言って、海生は再び看護師さんの後について歩き出す。今度こそ視界から消えたのを確認してから、俺は小さくガッツポーズをした。
***
七森海生はいつも一人だ。
よく言えば一匹狼。悪く言えば浮いた存在。どちらの言い方が適切かなんてどうでもいい。だって海生自身が、周りの人間が自分をどう表現するかなんて一切興味がないんだから。
それだけじゃない。小学校で必ずおかわりじゃんけんになる給食のあげぱんも、中学校でみんなが夢中になった綺麗な先輩も、海生は興味がなさそうだった。
それでも海生はちゃんと宣言通り、1時間後に俺の病室に戻ってきてくれた。
「入院中って話し相手が欲しくなるよね」
ベッドの横にある丸椅子に座りながら、海生がどこか納得したように言った。なるほど、そう解釈されたのか。
せめてものもてなしにと売店で買ってきた数種類の飲み物から好きなものを取るように勧めると、迷うことなく無糖のコーヒーを選ぶ。
「コーヒーなんだ!?」
「え、ダメだった?」
「ダメっていうか…昔は飲んでなかったよな?」
「よく覚えてるね、そんなこと」
カシュッと小さな音を立てて、プルタブを引く。その指に結婚指輪がないことになんとなく安堵する。
「長いの?入院」
「あー…まあ。癌なんだよね、結構ヤバくてさ」
こういうことは自分から早めに言ったほうがいい。余命宣告されてから覚えたコミュニケーションの基本だ。
「海生は?誰かのお見舞い?」
そして話をさっさと変えてしまう。よっぽど深い関係の相手じゃなければ、これ以上はつっこんでこない。余命数か月なんて暗い話を好んでしたがるヤツなんてまずいないんだから。
「うん。父親が食あたりで」
「ふーん、偉いな。仕事は?今日平日だろ?」
「帰ってからするよ。フリーだから時間は融通きくんだ」
「フリー?」
「システムエンジニア」
「マジか、なんか意外」
「そう?」
「うん。お前は海に関わる仕事に就くんだろうなって思ってた」
そう、海生の世界は海の中にある。
大海原を悠々と泳ぐ魚たちや、波にひらひらとゆらめく海藻、深海にいるであろう未知の海洋生物たち。海生にとってそれらは、給食の人気メニューや学校のアイドルの何倍も魅力的だったようだ。海生が持っている時間と労力はすべて海に注がれ、その他のことは彼の世界にはないも同然だった。
だから、初めて同じクラスになったヤツは大体、海生が赤点をとって居残りさせられているのを見て驚愕する。休み時間も机で本(※海洋生物にまつわる本に限る)を読んでいるから、真面目な秀才だと勘違いされがちだったのだ。
ちょっと極端すぎて心配になるけど、同時に凄く潔くてカッコいいことにも思えた。周りを気にして『藤崎桜汰』を運転している自分には、絶対にできないことだったから。
「なんでシステムエンジニア?好きなことと仕事は別ってかんじ?」
探るように聞いたのは、今の海生のことを知りたい気持ちが半分、かつての海生の面影を探したい気持ちが半分だった。
「そうだね。そういう仕事もしてみたかったけど、SEなら学生でも稼げたし」
「すげぇ。学生のうちから働いてたの?」
「あー…うち、高1のときに父親が事故って仕事続けられなくなっちゃったんだよね」
「えっ」
思わず声が出た。海生の口からさらりと出た言葉に、俺はずっと探していたパズルのピースが見つかったような気持ちになる。
ピースをなくしたのは、高1の2学期。
夏休みが終わって登校すると、海生が学校からいなくなっていたのだ。担任から、家庭の事情で引っ越したとだけ聞かされた。その頃には地元の情報ネットワークも希薄になっていたし、もともと海生の家は父子家庭で人付き合いが少なかったから、引っ越しの理由を知っている人はいなかった。
高校に入学したばかりで転校なんてよっぽどの事情があるんだろうとは思っていたけど…。
「高1の時に突然引っ越したのって、それ絡み?」
「うん。新しい仕事見つけるまで父親の実家に同居させてもらってた」
「大変だったんだな。…全然知らなかった」
「?知ってるわけないよね。今初めて言ったんだから」
海生は『なぜそんな当然のことを言うのか』と言わんばかりに首をかしげる。
当時の海生がどんなに辛かっただろうとか、できれば助けになりたかったとか、言葉に含まれた俺の感傷には一切気が付かないらしい。他人に興味がないのは相変わらずだ。
「…変わらないなぁ、お前」
あーやばい、なんか泣きそう。
「そっちはちょっと変わったよね」
「そうか?」
ここで泣いたらキモ過ぎるぞ、と自分に言い聞かせて無理やりに笑おうとして──
「話したいなんて言うと思わなかった。昔もそんなに話さなかったし、俺のことを覚えてるのもちょっと意外なくらい」
──うまく、できなくなった。
『七森海生?変人じゃん』
『なんで桜汰ってあいつのこと気にすんの?』
『まさかお前あれ?BLってやつ?』
『出たー女子が大好きなやつ(笑)』
『お前桜汰から離れろよー。桜汰は七森がいーんだからさ(笑)』
中学2年生。俺は同級生との他愛もない会話の中で、周りと違う言動をすることがコミュニティの中でどんな結果をもたらすのかを悟った。
それ以来、細心の注意を払って海生との接触を避けた。海生に不快感を与えないように、周りに悟られないように自然に距離をとり、海生を俺の世界から少しずつ消そうとした。
でも、消えなかった。
だからそれが、単なる憧れではなく恋愛感情なのだと気づいてしまった。
「あ…ごめん、仕事の連絡がきたからもう行くね」
スマホを見ながら海生が立ち上がる。
「そっか。忙しいのに寄ってくれてありがとな」
反射的に答えてしまってから、後悔した。
これじゃあ、終わってしまう。せっかく10年ぶりに再会したのに。あの頃、周りの目を気にしてできなかったことが今、ようやくできているのに。
「じゃあね。お大事に」
嫌だ、まだ──
「本!本、貸してくれないか?」
「…え?」
まだ、終わりたくない。
「ほら、昔ずっと読んでたじゃん?入院生活、マジで暇だから俺も本とか読もうかなって思ってるんだけど、何読んでいいかわからなくて」
もっと知りたい。昔の海生のことも、今の海生のことも。
もっと──
「海生の好きな本、貸してくれよ」
海生と、同じ時間を過ごしたい。
「また親父さんのお見舞いに来た時に、寄ってくれたら嬉しいんだけど」
「…やっぱり変わったよね、藤崎」
ふっと海生の表情が緩む。俺の変化が彼にとって良いことだと解釈してもいいのだろうか。
「いいよ、どうせ毎日来てるから」
心の隅っこで、ずっと鍵をかけてしまっていたものが騒ぎ出すのを感じた。
***
「今回はどれが一番良かった?」
「うーん、クラゲかな」
俺が指さしたB4サイズの薄いハードカバー本を手に取ると、海生はふっと目を細めた。『クラゲの世界』という写真集と図鑑の中間のような本だった。
「古い本だけど、いいよね。表紙のアカクラゲが綺麗で」
海生は自分が褒められたときみたいに、嬉しそうに目を細めた。
あれから海生は、親父さんのお見舞いに来るたびに俺の病室にも顔を出してくれている。毎回必ず、律儀に数冊の本を持って。
「俺はあれがいいな、UFOみたいな…」
「ギンカクラゲ?」
「あ、そうそう」
迷いのない動作でページをめくり、ギンカクラゲの写真を出して見せる。そんな芸当ができるようになるまで、一体どれほど読み込んだのだろう。
「UFOかぁ。俺には花みたいに見える」
円状の中心部から細い触手が無数に伸び、ひとまわり大きい円を作っている。確かに、言われてみればヒマワリっぽい気もする。
「こんなに綺麗なのに毒があるって怖くね?俺、前に海で遊んでたらクラゲにやられて超大変だったんだよな」
「仕方ないよ。それがクラゲの生き方だから」
「生き方」
脳を持たないクラゲに『生き方』も何もないだろう。
なんて、もちろん言わない。
「クラゲは刺胞動物だから、反射で動くんだ。ちぎれた触手に触れても刺されるよ」
「え、それなんかカッコいいな。本体から離れても敵を攻撃する、みたいな?」
「敵認定はされてないんじゃないかな。そもそもクラゲには脳がないし」
「マジで?クラゲって悩みなさそーでいいなーって思ってたけど、本当に悩まないってことじゃん」
「あぁ、それ俺も小学生のときに思った」
あ、笑った。
切れ長で涼しげな印象の目元が、笑うと凄く優しそうに見えるから不思議だ。
「なあ、もしかしてヒトデとかもそーゆー感じ?」
「いや。ヒトデも脳はないけど、分類的には違って──」
目をきらきらさせてヒトデの生態を話す様子は、ヘリコプリオンの話をしていた小学2年生の時から何も変わっていない。
海生は海の生き物たちの話をしているときだけ表情豊かになる。それが見たくて、俺はいつも無知を装うという小さなズル──もとい、13年間の営業で鍛えた大人のコミュニケーションスキルを発揮する。
「──そろそろ行くね」
「ありがとな。また本借りるの楽しみにしてる」
どんなにスキルを磨いても、楽しい時間はやがて終わってしまう。こんなふうに、寂しさを隠して誰かを見送ることなんて、大人になってからあっただろうか。
最後に元妻を見送った時の寂しさとは違う、目の前にいる相手と離れてしまう名残惜しさから来る純度100%の寂しさだ。我ながら重すぎる。
「また俺が持ってる本でいい?普通のミステリーとかが良ければ、本屋でおすすめ聞いて買ってくるけど」
「え…?海生ってそういう気遣いできんの…??」
「いや、気遣いっていうか…」
返した本を紙袋にいれながら、海生は珍しく言葉を探していた。
「…後悔しないほうがいいと思って」
再会した日以来、病気のことを聞いてくることはなかったけど、俺の容態が日に日に悪くなっていくのは見れば明らかだ。
海生は他人に興味がなくても、決して冷たいわけじゃない。もう長くはない残された時間を、少しでも良いものにしてくれようとしていた。
「ありがとう。…でも俺、海生が会いに来てくれて好きなものの話を聞かせてくれるのが、すごく楽しいんだ」
「…変わってるね。そんな人初めて見た」
「そうか?俺は、変わってるって言われるのが初めてだわ」
それは、世間やコミュニティとの『ズレ』を意味する。どうすれば言われないか、そればかり考えてきたのに、海生に言われたら誉め言葉にすら思えてくる。
──ああ、やっぱり俺は海生が好きなんだ。
余命僅かだというのに、その気持ちはあの頃よりもずっと大きくなってしまった。
「…出口まで送る」
「!あぶな…っ」
立ち上がろうとしてよろけた俺を、正面から抱きしめるような形で海生が支えてくれる。大して変わらないと思っていたけど、海生ってこんなに背が高かったのか。
細く見えるのに力強い腕の感触や、意外なほどに熱い体温。服からは柔軟剤の甘い匂いがして、くらくらした。
「送らなくていいから、寝てなよ」
「…ん」
「じゃあね」
病室を出る海生の後ろ姿が次第にぼやけていく。
ドアが閉まると、堪えきれずに涙が溢れてきた。
「…っ、う…うぅ~っ…」
なんで俺、末期癌なんだろう。
やっと海生と仲良くなれたのに、なんで死んじゃうんだろう。
「なんでっ…なんで俺はっ…」
周りを気にして、好きだという気持ちに蓋をして。
なんで、あんな無駄な時間を過ごしていたんだろう。
ようやく鍵があいて外に出てきた『好き』は、馬鹿な脳みそのせいで、誰にも知られることなく消えてしまう。
──こんなことなら、あの頃ちゃんと海生に好きだって言えばよかった。
『…後悔しないほうがいいと思って』
海生。残念だけどそれは無理みたいだ。
***
そうして俺は、後悔にまみれて短い生涯を終えた。
***
「──汰。桜汰っ!」
「…ん…?」
なんだろう、誰かが俺のことを呼んでいる。
重い瞼をこじ開けると、病院の白い天井のかわりに見慣れた実家の天井と母親の姿が視界に飛び込んできた。
「……母、さん……?」
「遅刻するよ、早く起きなさい!」
「起きろって…え?」
俺、死んだのに?
わけがわからない。だけど──確かに、身体の感覚がある。
「もう、しゃんとしてよ。今日から高校生でしょ」
──なんなんだ、これ?
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