エントランスをくぐってすぐ。岳斗は真正面に位置づけられた受付けへ近付くと、ふんわり人懐っこく見える営業用スマイルを浮かべて名刺入れから『土恵商事 総務部財務経理課長 倍相岳斗』と書かれた名刺を取り出した。
「土恵商事の倍相と申します。十時半に御社の経理課・美住様とお約束があるのですが」
社屋に入る前、確認した時計は十時二十分を指していた。杏子には先程電話で根回し済み。アポありで訪ねてきたと告げた方が取り次いでもらいやすいことは経験上知っているから、とりあえず受付けに土恵から杏子に来客が来る旨を伝えておいて欲しいとお願いしておいた。杏子に会ったら、用事なんて適当にでっち上げればいい。
二十代前半くらいだろうか。セミロングの髪の毛をくるんと内巻きにした品の良さそうな受付嬢は、目の前に立つ岳斗を前に、お辞儀をすることも忘れて固まってしまったみたいだ。綺麗どころとして会社の顔に選ばれ、それなりにきちんと日々の役割もこなしているであろうはずなのに、彼女はまるで職務放棄したみたいにどこかポォッとした表情で岳斗に見惚れている。
だが、こんなことは自分と初対面の女性には割とありがちなことだ。
実際のところ、見た目だけで異性からこんな反応をされることには心底辟易している岳斗だったけれど、あえて気付かないふり。
「あの……山本さん?」
ちらりと受付嬢の胸元に付けられた名札を確認するなり、困惑した体で、わざわざ彼女の名を交えて呼び掛けた。そうして、意図的にあざとく見えるように小首を傾げて先を促すのだ。
これだけで持ち直してくれたのはさすがというべきか。
「あっ、し、失礼いたしました。……つ、土恵商事の倍相岳斗さまですね。その……み、美住から話は伺っております。彼女を下までお呼び出し致しますか?」
ワタワタしながらも、しどろもどろ。何とかいつも通りと思しき対応をしてくれたことに、岳斗はホッと胸を撫で下ろす。
受付嬢の提案を一瞬にして脳内で転がすと、「いえ、途中他の部署の方々や中村経理課長さまにもご挨拶したいですし、経理課が何階にあるのかだけ教えて頂けたら自分で……」とにっこり微笑んだ。
(道すがら、それとなく社内の様子を探ってみよう)
杏子の様子からして、問題は経理課内だけではないように感じた岳斗は、受付嬢から経理課は四階だと聞き出したのち、わざとエレベーター前を通過して階段へと向かった。
***
エレベーターホールと階段の間には社内のフロアマップが貼られていた。経理課が何階にあるか知りたくて受付けに挨拶した岳斗だったけれど、もしかしたらしれっとそのまま侵入しても、差し支えなかったかもしれない。
受付け通過後に社員証をかざすなどするゲートがあったわけでもないことを考えると――。
(ここ、セキュリティ面が微妙だな。――けど……まぁ相手側の防犯面はどうあれ、窓口通すのは社会人としては常識か)
杏子のためならば少々問題を起こしても構わないと思っているのと同じ頭でそんなことを考えてから、岳斗は我ながら考え方が破綻してるな、と苦笑せずにはいられない。
受付けで土恵商事の名刺を出したのは、暴走し過ぎないようにという自制のためでもあったことを思い出した岳斗は、(大葉さんの信頼を裏切らないようにしないと)と気持ちを引き締めた。
階段をゆっくりと上がりながらタクシー内で杏子に折り返した電話のことを反芻した岳斗である。
受付けで用件を伝えた時、すんなり話が通ったことからも、杏子はちゃんと岳斗の言い付け通りアポが取られている体で受付けに根回ししてくれたんだろう。
そういうことが出来たと言うことは、音声データを送ってきた時のような逼迫した状況にはないはずだ。いくら防犯意識が低い会社でも、アポなしの人間をすんなりフロア内へ野放しにすることはないと信じれば、の話だが。
電話した時は会議室にいると言っていた杏子に、「個室に一人は危ないかも知れないから」と言って「人がいるところにいて?」とお願いしたのだが、真面目な彼女のことだ。ちゃんと言いつけは守っているだろう。
(さて、どこにいるかな?)
スーツの内ポケットに仕舞っていたスマートフォンを取り出しながら(もう一度杏子ちゃんに電話をかけてみる?)と思った岳斗だけれど、彼女の性格を考えると経理課の自席に戻っていそうな気がして、(電話は極力控えた方が無難かな?)と考え直す。
杏子が今、職場でどんな扱いをされているのか岳斗には分からない。そんな状況で私的な電話を受けさせるのは、攻撃される隙を与えかねないではないか。
(とりあえず杏子ちゃんが送ってきた音声データに入ってた〝ササオ〟ってヤツが何者かを探るのが最優先事項かな)
中村経理課長が杏子に不埒なことをしようとしたとき、『先日のササオくんとの件でみんなとギクシャクしてるみたいだけど』とか何とか言って、彼女を気遣う素振りを見せていた。あの口振りからすると、杏子はササオのせいで、社内で孤立しているのではないだろうか。だとすれば、そこを調べないわけにはいかない。
そう思っていた岳斗だったのだけれど――。
「ホント笹尾さん、災難でしたねぇー」
どうやらどこかにいるらしい〝神様〟は、岳斗の味方らしい。
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