兄さん、お元気ですか?
兄さんが自殺してから、何年か経ちました。僕も大人になったんですよ。実感はないんですけどね。僕はお酒をあまり飲まないものですから。
兄さん相手に敬語を使うのは違和感がありますが、今でも一応は母さんと父さんが教えてくれた礼儀を守っています。僕が小さい時に死んでしまったから顔や声をよく覚えていないんですが、それでも教えられたことを覚えているということは、相当熱心に教えられていたんでしょうね。勿論、ある程度は兄さんから教えてもらいましたけど。
兄さんが教えてくれた空き地があったじゃないですか。よく子供の遊び場になっていた所です。あの場所、今では飲食店になっているんですよ。和食の店らしいです。珍しいですよね。あそこは洋食店が多かったですから。
そして、あの戦争で壊れた建物も直ったんですよ。
実は、母さんや父さんや兄さんを殺した戦争は終わったんです。割と最近のことです。今では和解しています。多分ですが、この先、両者の間に戦争は起きないんじゃないかと思います。あの戦争の死者は物凄い数でしたからね。それに今は仲が良くなりましたから。
いえ、兄さん相手に嘘を吐くのはよくないですね。そういえば僕の嘘は毎回兄さんに見抜かれていました。正確には、和解に向かっている、という方が正しいです。何故こんな不確かかと言いますと、僕は外部との連絡を絶っているんです。
実を言うと、僕は数年前から地下室に閉じ籠っているんです。正確な月日は分かりません。数えるのを辞めてしまったので。そして、地下室と言っても、実家のじゃないですよ。今は天界の方に住んでいて、その家の地下室です。戦争が終わってからのいざこざの内になんとか天界に入り込みました。こんなことを知ったら兄さんは怒るかもしれませんが、単純に天界視点での情報が知りたかったんです。危険な行為というのは分かっています。そして、この戦争の全体を把握するため、さらに知識をつける為に地下室に籠りました。
していたことと言えば、ほとんど勉強です。この世界について知ったり読書をしたりが主でした。そして思考に耽る時間も多かったですね。まあ、それが原因で僕は気が狂ってしまったんでしょう。
最近奇妙なことが起こっているんですよ、兄さん。最近、と言ってもどれくらい前からか分かりませんが、僕の古くからの友人と自称している人が手紙を渡してくるんです。扉の下には少し隙間が空いているもので(狭さとしては鼠がギリギリ通れるくらいでしょうか)、僕の家の地下室に繋がる扉にも下に隙間があるんです。ある日、ふと扉の下を見ると、封筒に包まれた手紙があったんです。大方その隙間から入れられたんでしょうね。
暫くは見る気になれなかったので放置していたんですが、数日経った後また入れられていたので、誰かが意図的にやっていると分かりました。見る気になれなかったのはそういう怪しさからでもありますが、その当時の僕はとにかく暗かったんですよ。
簡単に言うならば、外部との連絡を絶った結果、僕の思考は本や資料に書かれていることに毒されていたんです。そのせいで僕は昔より悲観的に、享楽的に、そして冷笑的になりました。今でもそれが後遺症のように残ってしまいました。子供の時から、僕はかなり言動の矛盾が多いと言われてきましたが、その時はそれがより激しくなっていました。一言でまとめるなら、躁鬱です。兄さん。
現実を見すぎたんです。勘違いはよしてくださいね、僕は夢物語も理想論も嫌いです。
この世界の全容、分かりますか?兄さん。右も左も戦争しているんです。理由なんて些細なものです。あの人達は体が麻痺してしまっているんですよ。退屈に、刺激に。僕は理解してしまったんですよ。
外国に行ったことはありますか?天界の下には確か中立地帯の国がありましたよね。そこから見て外国です。大体は焼け野原ですよ。文明が滅んでいます。そういう場所は大抵気候や立地が厳しくてどの国の手にも入っていないし、そこに住もうとしてる人もいません。今やこの世界の中に、完全に安全な場所なんてありません。例の中立地帯の国も完全に安全とは言えません。僕から言えば無法地帯ですからね。
とにかくそういうわけで、僕は気が狂ったような状態になってしまったんです。嘘じゃありませんよ、兄さん。
話を戻します。さっき書いたもの以外にも手紙は来ていたんですよ。その手紙に書いてあった内容ですが、簡単に要約して書いておきます。
一通目、「久しぶり、元気にしてたかな?僕は君の友人だよ、覚えてるかな?(以下、僕が学校に通っていた時の話)」
二通目、「僕が君にお母さんの話をした時、君は医者になれって言ったよね。そして今は少し違うけど研究者になったんだよ(以下、その人の母親の話)」
三通目、「君の家族は戦争で死んじゃったんだよね。でも今は戦争終わってるんだよ。だから安心して出てきてもいいんじゃないかな、僕も話したいことあるし」
四通目、「薬を作ったんだ(文のほとんどが乱れていて読めない状況の為、これ以上読み取り不可)」
五通目、「覚えてないかもしれないから、僕のこと話しておくよ(以下、その人の自己紹介)」
五通目に書かれていた名前に、僕は見覚えがありませんでした。彼曰く、アルベア・ブレーデフェルトという名前らしいのですが、僕の記憶ではブレーデフェルトという人物はいなかったような気がします。苗字が変わったならまだ分かりますが、アルベアという名前も聞いたことがありませんでした。
それだというのに、一通目や三通目に書かれていた僕の名前が合っていたんです。それに加えて、僕の母さんと父さんが戦争で死んだことも、兄さんが自殺したことも、家族全員の名前も、僕が今住んでいる家も知っていたんです。どこから手に入れた情報かは分かりません。彼によると僕が教えたらしいです。家族の名前ならまだしも、僕が天界に言ったことなんて誰にも話してないのにですよ。
僕はですよ、兄さん。僕はそのアルベア・ブレーデフェルトという人物はいないと思っていました。なにしろその当時の僕は正常ではなかったからです。手紙も、その内容も、全て僕の幻覚なんじゃないかと思ったんです。全て、気に病んだ僕の。
僕は母さんと父さんが亡くなったことを気にしていません。失礼は承知ですが、姿も声も覚えていないのですから、悲しむに悲しめないんですよ。兄さんが目の前で死んだ時でさえ、僕は泣くことができませんでした。出てこなかったんです、涙が。どうか失望しないでください、兄さん。でも僕が、もし、無意識にそれがトラウマになっていたとしたら、僕の気が狂っていた時にそれが浮き出てしまったんでしょう。もしもの話ですよ。
とにかく、とにかくですよ。僕はその手紙に思考をロックされていたんです。もう何の情報も頭に入ってこなかったんです。正確には、入ってくるんですけど、理解できていないということです。別のことを考えながら活字を追っているとよく感じる感覚です。
僕はその感覚をどうしても頭から消し去りたくてたまりませんでした。なので逆に手紙を出したんですよ。長らく文字を書いてこなかったのでなかなか苦戦しました。僕が今こうやって手紙を書けているのもこの経験のおかげです。でも僕が手紙を書き終わり扉の下の隙間に置いた次の日に気づきました。彼の存在自体が僕の妄想でしかないのならば、返事は必ず返ってくるはずなんです。そうして意味はないと思い手紙を回収しようとしましたが、もう無くなっていました。誰かが取ったということです。つまり、手紙の差出人は実在していたんです。
僕がまだ小さかった頃のことを兄さんは覚えていますか?学校に通っては、兄さんより早く家に帰宅していた時のことです。実はあの時、僕はどうしようもない大馬鹿だったんです。今の僕がその頃を思い出すと苦笑いするくらいには。あの頃はですね、兄さん。僕は周囲に怯えていたんです。冗談抜きに。大人というのが怖かったんですよ。何せ子供の僕より力も強いし、知識もあるし、権力もあるんですからね。正直に言うならば嫌いでした。というより怒らせたくなかったんです。何度も言いますが怖かったんですよ。大人を怒らせた時の空気が。何されるか分かったものじゃないですからね。僕は機嫌を取るために人一倍お利口なお子さんを演じました。演じるまでもなく、僕の周りはそれより大馬鹿な子供でしたけどね。いや、それだからこそ僕は子供の頃大馬鹿者だったんですよ。
でも一人違うのがいましたね。周りからは避けられていましたけど。なんでも子供というのは周りから浮いているものを嫌いますからね。いくらその浮いている人が正しくてもです。
どうやら手紙の差出人は僕と同い年らしいですよ。もしかしたら同じ学級にいたかもしれませんね。
兄さん、僕は不安なんですよ。理由は言いたくないです。気にしてほしくないんです。自己嫌悪も、自己憐憫も、捨てたいんです。でも、ああ、あれは。知りたくなかった。
あの人は今どうしたらいいか分かっていないんだと思います。自分の神を心から心酔しているんですよ。ここからは僕の戯言でしかないんですが、彼はおかしいんですよ。笑ってしまう程にね。彼はただ自分の思想を分かってくれるような頭のいい人が欲しかっただけなんです。ただ、それさえあれば、よかったんでしょう。幻想に憑かれているんですよ!いつまでも自分の殻に篭っているだけだ。僕が言えたことじゃないんですけどね。彼にとっての神様は彼の生みの親です。サンタ・マリアと彼は言っていましたね。
兄さん、僕はこれからどうしたらいいのでしょう?いい加減視野が狭くて退屈になってきました。それに話し相手は自分しかいませんからね。この手紙の初めから兄さんに語りかけているように思えるかもしれませんが、結局は届かないので自分に書いてるのと同じですよ。繰り返される自問自答の末、僕はやっと夢から覚めたんです。兄さんが身を投げた理由も今なら分かる気がします。今更気づいたんですよ!
この世界は、もうどうにもならないんです。
「なんだ、馬鹿馬鹿しい!」
手に持った羽根ペンも長文を書いた紙も、やけになって放り投げた。
こんな遺書まがいなことを書いて、更にはこのまま死ぬだと?結局自分は大馬鹿者にしかなれないじゃないか!
絶対に死ぬもんか。大体、僕が世界を変えるだなんて思い上がりでしかない。英雄になる気か?絶対にごめんだ!
そうだ、外に出よう。こんな地味な地下室だから気が狂うんだ。
そうして机に置いてある懐中時計(一応は兄さんの形見と思い込んでいるものだけれど)を掴んだとき、扉が開いて光が漏れこんできた。
数年ぶりに浴びる光だ。日光ではないだろうけど。鍵は閉めていたはずなのに、一体誰が開けたのだろうか。
扉の奥から、影がやってくる。身長は僕と同じくらいだろう。
「…誰です?」
誰かと話すのも久しぶりだ。
「君の古い友人!」
今、貴方にだけは会いたくなかったんですけどね。