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レモン
ふわねこカラメル
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営業フロアはいつもの喧騒に満ちていた。コピー機の低い唸り、絶え間ない電話の呼び出し音、キーボードを叩く乾いた音。
外回りから戻ってきた営業の男たちが、丸めたポスターで私の頭を軽くポンポンと叩きながら通り過ぎていく。
「お疲れ〜、佐々森ちゃん。またミスったって? 頑張れよ〜」
嘲るような笑い声が背中に突き刺さる。顔を上げると、そこに聡太の姿があった。困ったような、どこか呆れた笑顔。入社以来付き合ってきた彼氏——佐藤聡太は、営業部のエースとして毎日忙しそうに動き回っている。
「おかえり、聡太」
「……穂乃果、お前……またやったんだって?」
彼は私のデスクに片手をつき、顔を覗き込んできた。ため息が混じった声が、予想以上に冷たい。
「……また、課長に叱られちゃった」
「入社三年目で弛んでんじゃねぇの? お前、最近マジで使えねぇよな」
「そんなつもりは……」
私は小さく息を飲み、勇気を出して聞いた。
「あ、聡太。今夜は何時に帰る? 久しぶりに一緒にご飯食べたいな……」
「あー、飲みだから遅いわ。夕飯いらね」
一瞬の間もなく、事務的に切り捨てられる。彼はもう私の顔を見ずに、自分のデスクの方へ視線を移していた。
「……そっか」
最近、聡太の帰りはどんどん遅くなっていた。アパートに来ることも減った。朝早く作ったお弁当も、夜に温かくしておいたご飯も、ほとんど一人で食べる日々が続いている。「忙しいんだよ」の一言で終わらせられるたび、心のどこかが少しずつ削られていく気がした。そんな私たちのやり取りを、少し離れた自分の席からじっと見つめている人物がいた。
真言寺くんは、ファイルに視線を落としたまま、でも耳は明らかにこちらに向けられている。黒縁メガネの奥の瞳が、静かに細められていた。
「……彼氏さんですか?」
その声は、いつもより少し低く、抑揚が少なかった。
「あ、うん。そうだよ」
「そうですか」
ファイルのページを捲る手が、ぴたりと止まった。指先が紙の端を強く握りしめ、関節が白くなるほど力を込めている。
黒縁メガネの奥で、彼の瞳がわずかに、だが確かに揺れた。
「あの人……」
「ん?」
真言寺くんは一瞬、唇をきつく噛むような仕草を見せた。穏やかな表情の裏で、何かが激しくざわついているのが、はっきりと伝わってくる。
「……やっぱり、何でもないです」
そう言いながら、彼はファイルを強く閉じた。いつもより荒い動作だった。視線を逸らし、唇を一文字に結ぶ。まるで、自分の中に湧き上がる感情を必死で押し込めているように。
◇◇◇
胸の奥で、熱いものが疼いている。彼女があんな男に、疲れた笑顔で「今夜は何時に帰る?」と聞く姿。
あの男が、彼女の作った夕飯を簡単に「いらね」と切り捨てる姿。
――僕なら、絶対にそんなことはしないのに。
僕は心の中で静かに、しかし強く呟いた。彼女の作ったものを、全部美味しそうに食べて、「今日もありがとう」って、ちゃんと抱きしめてあげたい。彼女が傷ついた顔をするたび、胸が締め付けられる。あんな男に、彼女を傷つける資格なんてない。……彼女を、あんな風に傷つける男なんか、本当はすぐにでも消してしまいたい。
でも、今はまだ。まだ、タイミングじゃない。彼女が僕に、心を許してくれるその日まで——。
◇◇◇
「おい! 佐々森! 3番に外線!」
「は、はいっ!」
私は慌てて受話器を取った。声が上ずってしまう。背中に、真言寺くんの視線が熱く突き刺さっているのを感じた。彼は黙ったまま、でもファイルの端を指で軽く、執拗に叩き続けていた。そのリズムは、抑えきれない嫉妬の鼓動のように、静かで、しかし確実に続いている。
トン、トン、トン……。
まるで、心臓の音が聞こえてくるかのように。